その夜が明けてから、ブロッケンマンは約束通り店の壊れた物の弁償をすると言ったが、ゲオルクはそれを拒否した。
「…気持ちはありがてぇが、金は受け取れねぇな」
「しかし、かなり派手に壊してしまったし、壊れた物の代わりを買うのに相当の資金が要るのでは…」
ブロッケンマンの言葉を遮る様に、ゲオルクはきっぱりと言う。
「言ったろ?俺にとっちゃ店よりも、あいつらの方が大切なんだよ。それを助けてくれた人間から金は受け取れねぇ。それに、ここの店のもんは安物だから、あんたが気にするほど揃えるのに金はかからねぇよ」
「しかし…」
なおも続けようとするブロッケンマンに、ゲオルクはふと思いついた様に提案する。
「…そうだ、それなら壊れたテーブルとかの修繕をやってもらえねぇか?この程度なら直して使えるしな。それでこの事はチャラって事にしようぜ」
「…それでいいのか?」
「ああ、俺も長い付き合いのこいつらには愛着があるんでね。直せるならそれにこした事はねぇしな」
笑って言うゲオルクにブロッケンマンは考え込んでいたが、やがて柔らかな笑みを見せて答えた。
「分かった。…それでは明日から修理をさせてもらおう」
翌日、ブロッケンマンは朝から店に出向き、テーブルなどの修繕をした。ゲオルクと一緒に作業をしたので、自然と会話が増える。そうして作業をしながら二人は会話が弾んでいた。
「…そういえば、あなたは店よりもあの二人の方が大事だと言っているが、あなたにとってあの二人は一体どういう…?」
ふと漏らしたブロッケンマンの問いに、ゲオルクは少し考えた後、おもむろに口を開いた。
「…お前さん、二人が俺の事を『おじさん』って言ってる事には気付いてるか?」
「ええ」
「…あの二人はな、俺の友人からの大切な預かり物なんだ」
「『預かり物』…?」
「…あの二人の両親は、戦争の時に死んでるんだ。しかもそれは戦争のせいじゃない。反ナチのレジスタンス活動でだ」
「!」
ブロッケンマンは驚きのあまり絶句する。ゲオルクはそれに気がつく様子もなく、当時の事を思い返す様に虚空を見詰めながら呟く様に続ける。
「俺はあいつらの両親が捕まる前に、赤ん坊だったあいつらを引き取ったんだ。反ナチなんてあの頃からしたら危ない事をしていたとしても、俺にとっちゃ大切な親友だった。だから俺は親友の宝物だったあいつらを引き取った。…俺はあいつらの親が幸せになれなかった分、あいつらを幸せにしてやりたいんだ」
「…」
ブロッケンマンは沈黙していた。ゲオルクはやっとその様子に気付き、寂しそうな表情で言葉を重ねる。
「…とはいっても、結局は店で働かせちまっているんだから、あいつらには悪い事をしてるんだがな。…音楽が好きな二人にちゃんとした教育もさせてやれねぇ。アマーリエも奨学金で大学に通う身だ。せめて好きな音楽がいつでもできる様にピアノを置いたんだが、それじゃ教育にはならねぇしな…」
「…」
二人の間に気まずい沈黙が訪れる。しばらくの沈黙の後に、ゲオルクが今度はブロッケンマンに問う。
「…それより、あんたこそ何者だい?あの男どもをあしらった時の身のこなし、あんた只者じゃねぇな」
「いや、私は…」
口ごもるブロッケンマンにゲオルクは続ける。
「…まあいいさ、言いたくねぇんなら言わなくても。あんたの事だ、何か言えねぇ訳があるんだろうからな」
「…すまない。今は言えないが、いつか必ず、あなたにだけでも話すから…」
「そうかい、ありがとうよ」
そうして再び気まずい沈黙が流れる。しばらく二人は気まずい沈黙の中で作業をしていたが、それを破る様に聞き慣れた声が不意に聞こえた。
「お~い、仕事が空いたから手伝いに来たぞ~!」
「私達もかなり壊しましたからね。フ…クラウスにだけ直させるのは不公平ですし」
「ありがとうよ。これで今日中に修繕が終わりそうだ」
こうして店の修繕をした事が縁で、ブロッケンマンだけでなくテオドールやクラウスも、この店に時々通う様になっていった。とはいえ、家庭がある上自分も偽名を使わなければならないクラウスはあまり店に訪れず、もっぱらテオドールが店に顔を出す事が多かったのではあるが。誰にでも気さくな態度を見せるテオドールはすぐこの店になじんだが、テオドールも正体を隠す自分の主人の姿を見て、自分が超人であると隠す事に怠りは無かった。そんなある日、ブロッケンマンとテオドールは一緒に店に来て、二人で取り留めのない話をしながら飲んでいた。そうしてふと会話が途切れた時、飲んでいた客の一人がローザに話しかけているのが聞こえてきた。
「そういえば、ローザが前話そうとしてた『嬉しい事』ってのは、一体なんなんだい?」
その言葉に、ローザは満面の笑みを浮かべて口を開く。
「実はね…アマーリエが大学のコンクールで賞を取ったの!」
「へぇ、おめでとう!アマーリエ!」
「ありがとうございます」
「それだけじゃないのよ、そのピアノを聞いてた音楽家の人がね、『うちでプロを目指してレッスンをしないか』って言ってきたのよ!」
「何だって!?すげぇじゃねぇか!」
「でしょ!?」
嬉しそうにはしゃぐローザを、ブロッケンマンとテオドールは楽しそうに見詰め、ふとブロッケンマンがアマーリエに視線を向けると、彼女ははしゃぐ姉とは正反対に、困った様な様な笑みを浮かべていた。それに気付いたブロッケンマンは彼女を気遣いながらも口を開く。
「…どうしたんだ、浮かない顔だが。いい話じゃないか」
「ええ、私も確かに嬉しいんです。でも…」
「…でも?」
「私、迷ってるんです。レッスン料は要らないって言われてるから、それはいいんですけど、私に本当にプロでやっていける程の実力があるのかなって。…それに、その先生の稽古場はベルリンじゃないから、ここを離れなくちゃいけないし…それも寂しくて…」
困った様に微笑むアマーリエを見ている内に、ブロッケンマンの口から半ば無意識に言葉が紡ぎ出されていた。
「…やってみたらどうだろう」
「え?」
彼の言葉にアマーリエが驚いた表情を見せる。彼は続けた。
「君は前に『人に喜んでもらえるからこの仕事が好きだ』と言っていたじゃないか。私は、君のピアノは人を喜ばせる何かがあると思っているよ。私はそんなあなたのピアノを、もっと多くの人に聞いて貰いたいと思うんだ」
「クラウスさん…」
「よっ!クラウス、いい事を言うじゃねぇか!」
「いや…」
客の言葉に、何より自分の無意識から出た言葉にブロッケンマンは照れ、口ごもった。そのブロッケンマンとは対照的に、テオドールが今度はさらりとローザを気遣う様に問う。
「でもローザ、そうするとお前の相方がいなくなるじゃねぇか。お前はそれでいいのか?」
テオドールの問いにローザは明るく答える。
「いいのよ、あたしはここで生きるしかないって思ってるけど、アマーリエにはもっと大きな所に行ってもらいたいの。この娘はそれだけの力があるって姉の欲目じゃなく思うしね。…まあ、こんなに気の合う相手はなかなか見つからないから、それはちょっと寂しいけど」
「へぇ…お前って見かけによらずいい奴だな」
「ちょっと、『見かけによらず』は余計よ。それにあたしは『いい女』なの。そこの所、忘れないでよね」
「ちぇっ…しょってるぜ」
からかう様に言ったテオドールにもローザは全く動じず、むしろテオドールに逆襲する。この二人のやり取りもある意味恒例となっているので、客の皆はおかしそうに笑った。
「…で、結局どうしたいんだい?アマーリエ」
客の一人に聞かれて、アマーリエはしばらく困った様に考えていたが、やがて決心した様に頷いて口を開く。
「…決めたわ。私、やってみる。みんなに会えなくなるのが寂しいけど、やれるところまでやってみたいと思ったわ」
「よっしゃ!がんばれ、アマーリエ!」
「俺達も寂しいが、アマーリエがピアニストになったら俺達も嬉しいぜ!」
「ありがとう」
アマーリエはやっと心からの微笑を見せた。ブロッケンマンはそれを見てある種の嬉しさを感じ、またその感覚に戸惑っていた。何で彼女が喜ぶ事で、自分は嬉しいと思うのだろう。この感覚の正体は何なのだろう――
やがて、アマーリエが旅立つがやって来た。彼女がホームで鉄道を待っていると、彼女に男が近付く。気配に気付いて彼女が顔をあげると、そこにいたのは――
「クラウスさん…どうしてここに…?」
そこには少し上気した表情のブロッケンマンが立っていた。
「今日出発だと店で言っていただろう?君を見送りたいと思って。そうだ…これを」
ブロッケンマンはどこかその辺りで摘んで来たのだろう。束ねられてもいない小さな白い花の束を、アマーリエに差し出した。
「未来の名ピアニストに敬意をこめて。…こんな花で悪いが…」
アマーリエは少し驚いた表情を見せたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「…ありがとうございます」
暖かな沈黙が二人に訪れた。しばらくの沈黙の後、ブロッケンマンが口を開く。
「…それでは、元気で」
「…あなたこそ怪我をなさらないように…『ブロッケンマン』さん」
その言葉に、ブロッケンマンは驚いた表情を見せる。
「知っていたのか…?」
ブロッケンマンの言葉に、アマーリエは頷いて口を開く。
「はい、私は超人レスリングに詳しくはないですが『ドイツの鬼』と呼ばれる超人の方がいらっしゃる事は知っています。私達を助けてくれたあの時の様子に、もしかしてと思って写真を見比べました。ちょっと見ただけでは分からなかったでしょうが、私には分かりました…」
アマーリエの言葉に、ブロッケンマンは思わずアマーリエを問い詰める。
「…それなのに何故、私をずっと歓迎してくれていたんだ!?国民が忌み嫌う様な男を受け入れていると皆が知ったら…!」
ブロッケンマンの鋭い問い詰めも恐れずに、アマーリエはきっぱりと答えた。
「だって、あなたはあなたじゃないですか。いつも一人で静かにグラスを傾けて、私と姉さんの音楽を聞いてくれる方じゃないですか。私は、あなたが無意味に暴力をふるう方には見えなかったんです。それに…」
「…それに?」
「あなたがブロッケンマンだと知った後、私は一度だけおじ様達には内緒で、あなたの試合を観に行ったことがあったんです」
「…!」
意外な発言にブロッケンマンは驚愕する。それを見てアマーリエはふと寂しそうな笑みを見せたが、更に続けた。
「あなたの戦い方を見て、確かに残酷な戦い方をするとは思いました。でも…」
「…でも?」
「あなたは決して反則技は使わなかった。それに、こんな戦い方はあなたの本心ではないとも思ったのです。あなたの心が、私には泣いている様に思えました…」
「…」
「…それが本当かはあなたにしか分からない事です。でも私にはそう思えた…だから私は黙っていたんです。私達のお店であなたの心の傷が少しでも癒えるのなら、それでいいと思って…勝手な思い上がりですよね」
そう言うとアマーリエは小さく溜息をついた。気まずい沈黙が訪れたが、やがて一転した柔らかい口調で、ブロッケンマンが口を開いた。
「…いや、私はあの店にいる時だけは自分が忌み嫌われる身だという事を忘れる事ができた。そしてそれが、とても心地よかった。私は相手に容赦をしないのが相手に対する情けだ、と信じていたつもりだったが、もしかすると君の言う通り、心の内ではそんな自分に嫌気がさしていたのかもしれない…ありがとう。心遣いに感謝している」
「いえ…」
ブロッケンマンの言葉に、アマーリエは少し戸惑うような表情を見せる。
「…しかし、この事はゲオルクやローザは…」
「知らないと思います。あなたならいつかは本当の事を話してくれる…そう思って私は話していませんから…」
「…そうか。…ありがとう」
アマーリエの心遣いにブロッケンマンは改めて心から感謝した。またしばらく沈黙が続き、やがて鉄道がホームに入ってきた。と、何か決心したようにアマーリエは頷き、沈黙を破って口火を切る。
「…これからしばらくは会えなくなります。…その前に…私に、本当の名前を教えてくれませんか」
「え?」
「クラウスという名前も、ブロッケンマンという名前も、あなたの本当の名前ではないでしょう?私はあなたの本当の名前が知りたいんです。…誰よりも一番に」
真剣なアマーリエの眼差しにブロッケンマンは少し迷ったが、やがてゆっくりと口を開く。
「フランツ…フランツ・フォン・ブロッケンだ」
「ありがとうございます…ではもう時間ですから行かないと。…さようなら、フランツさん。できれば、私がいなくなっても、お友達と一緒に、お店をごひいきにして下さいね」
ブロッケンマンは、少し涙ぐみながらも微笑んで去ろうとするアマーリエの手を掴んで引き寄せると、きつく彼女を抱き締め、耳元で囁いた。
「いつか…君が演奏家として成功したら、また私に会ってもらえるだろうか…?」
いきなり抱き締められた事とブロッケンマンの言葉に驚いたのか、アマーリエはしばらく沈黙していたが、やがて彼を見詰めると、嬉しそうに頷いた。
「はい」
自分の行動に気付いた彼は、慌てて彼女の体を離す。
「…引き止めてしまったな。…では、元気で。素敵なピアニストになる事を心から祈っている」
「はい」
アマーリエ踵を返して鉄道に乗り込もうとしたが、もう一度振り返ってブロッケンマンに近付くと、そっと彼の唇に自分の唇を重ね、彼に向かって微笑んだ。
「あなたもお元気で…ピアニストになってもなれなくても、あのお店に私は必ず戻ります。だから…待っていて下さい」
彼女が再び踵を返し鉄道に乗り込むと、そのまま鉄道は走り出した。ブロッケンマンはそれを見送り、赤面しながら自分の口元を手で覆う。半ば無意識に行った行動だが自分のした行動と、その後の彼女の行動で、彼は激しく混乱する。それは今までの戸惑いとは比べ物にならない位大きかった。何で自分はあんな事をしたのだろう、そして、彼女のあの行動の意味は――心の中で混乱はみるみる大きくなっていく。そしてその混乱の中、もう一つの感情が彼に芽生えた。彼女を騙していた罪悪感――その事実はどんな罪よりも重い様に感じられた。
「これからしばらく眠れないかもしれないな…」
ブロッケンマンはそう呟くと、鉄道が走っていった方向を見詰めていた。