それからもブロッケンマンは店を訪れた。テオドールやクラウスも店には時々訪れたが、彼はそれ以上に店に訪れる事が多くなった。まるで、何かに取り付かれたかの様に――店はローザの歌に合うピアノ弾きがなかなか見つからず、数回ピアノを弾く人間が変わったが、やがてアマーリエと一緒とはいかないまでも、彼女の歌に合わせられる人間が見つかり、客達は今までずっとピアノを弾いていた娘の事を時々寂しく思い出すが、その寂しさにも慣れ、少し新しい雰囲気になった店を楽しむようになっていた。しかしそんな客達とは裏腹にブロッケンマンはこの店にいる事が苦痛になっていた。理由は分かっている。自分がアマーリエの面影を求めている事、そして自分が素性を偽ってこの店に来ている事――自分の正体を知っても黙って自分を歓迎してくれていたアマーリエ。その事に感謝はしているが、それを知ったのと同時に、彼はその事に苦痛を感じる様になっていったのだ。ゲオルクもローザも、そしてこの店に来る客も一癖あるが皆善良で正直な者達ばかり。そして彼らはほとんど素性を話さない自分さえも仲間として認め、歓迎してくれていた。そんな善良な者達を自分は店のためと言いつつ騙している――それも苦痛となっていた。しかし、この店に訪れる事を止める事はできなかった。なぜなら、彼はここに来る事で、アマーリエの面影を求めていたからである。苦しいのに止める事ができない行動――そのジレンマに悩みながら何ヶ月か経ったある日、ゲオルクがアマーリエからの手紙が来たと客に話していた。ブロッケンマンは久しぶりに聞くその名前に、ふと心が弾む。しかしそれを他の客に悟られない様に気を遣いながら、ゲオルクの話に耳を澄ませる。
「…あいつらしいよ。何ヶ月も連絡をしなくてすまないってとこから書き始めてる」
「でも、アマーリエがそれだけ連絡をとらなかったって事は、相当苦労してたんだろうな…それで?なんて書いてるんだ?」
客の一人が興味深そうにゲオルクから話を聞き出そうと尋ねる。ゲオルクは静かに、しかし嬉しそうに答える。
「今度ベルリンでやる公演で、客演として出られる事になったそうだ。難しい曲を弾きこなさなければならないらしいが、充実しているようだな。好きなピアノで公演に出られる事がよっぽど嬉しいみたいだ」
「へぇ、よかったな。アマーリエ」
「酒場の皆にもよろしく伝えてくれとも書いてある。自分はいないが皆今まで通り楽しんでくれ…だそうだ」
「俺達の事も忘れねぇでいてくれてんだな!アマーリエらしいや。な?クラウス」
客の一人であるゲルハルト――ブロッケンマンが最初に店を訪れた時に絡んだ男で、今ではそれなりに仲良くなった男――が肩を叩きながら笑って言う。ブロッケンマンは更に苦しくなってきた。もう黙っている事はできない――
「…違う、私はクラウスではない…」
「…へ?お前何言ってんだよ。クラウスじゃなけりゃお前は何なんだよ。…まさか、あれだけケンカが強いって事は『自分は超人だ』なんて言い出すんじゃねぇだろうな」
あの日のケンカを思い出し、冗談っぽく言うゲルハルトにブロッケンマンは悲しそうに微笑みを返す。今まで見せた事のないその表情に彼はふと真剣な表情になり、更にに口を開いた。
「じゃぁお前、まさか本当に…」
「ああ、私は超人だ。しかもあなた方が忌み嫌っている『ドイツの鬼』ブロッケンマンなんだ…」
「何だって!?お前がブロッケンマンだって!?」
ゲルハルトの言葉に店は騒然となる。確かに自分の素性を話したがらないし、変わった男だとは思っていたが、まさかこの男が超人であり、しかも自分達が平時あれだけ怖れている男だとは――騒然とする店内で、ゲオルクのみが静かに口を開いた。
「…そうか。それであんたは、自分の事を話したがらなかったんだな。…しかし、そのまま黙っていればいいのに、今更何で言うんだい?」
ゲオルクの言葉に、ブロッケンマンは悲しそうな表情のまま応える。
「私も、本当はずっと黙っていようと思っていたんだ。…私はこの店も、皆の事も好きだったし、私の正体を話す事で迷惑を掛けたくなかったから…しかし、もうそれも耐えられなくなった。私が自分を偽るには、この店はあまりにも居心地が良すぎたんだ…」
ブロッケンマンの言葉に、店の中がしんと静まり返る。ブロッケンマンは席を立つと、勘定を差し出し、口を開いた。
「…今まで騙していてすまなかった。…私の正体が知れた以上、この店にもあなた方にも迷惑をかける事はできない。私はもう二度とここには来ないから。…しかしこれだけは覚えていてくれ。私はこの店も、あなた方の事も好きだったんだ」
そう言って立ち去ろうとするブロッケンマンの腕を、ゲルハルトが掴んだ。
「…待てよ」
腕を掴まれて振り返ったブロッケンマンの頬を、ゲルハルトは渾身の力で殴る。超人であるブロッケンマンにはそれ程のダメージは与えられなかったが、彼を驚かせる事はできた様だ。ブロッケンマンは驚いた表情でゲルハルトを見詰める。ゲルハルトは静かに口を開いた。
「…今殴ったのはな、お前が『ドイツの鬼』だからじゃねぇ。俺達を騙してたのが許せなかったからだよ」
「…」
驚いた表情のままのブロッケンマンに、ゲルハルトは更に畳み掛ける様に続ける。
「俺達を見くびるんじゃねぇよ。お前がどんな奴だって、俺達の仲間である事には変わりがねぇ。…そりゃ、最初に聞いてたら俺達はあんたを追い出していたかもしれねぇ…でもな、ここで常連になれるって事は、お前はこの店と店の奴らに認められたって事なんだよ。店とその客が次の客を選ぶ…不思議だがな、この店はそんな店なんだ」
ゲルハルトの言葉に同意するかの様に、別の客が口を開く。
「そうだよ。お前がここで何もなく暴れた事があったか?それに良く考えるとあんたの残虐だっていうファイトだって、それを食らう相手は、悪い奴らばかりじゃねぇか」
客達の言葉に、ローザも同意して泣きそうな声で、しかしきっぱりと言う。
「そうよ、あんたはあたしとアマーリエを助けてくれたじゃない。それにいつもあたしたちの音楽を喜んで聴いてくれた。あんた…ものすごくいい人じゃない!」
ゲルハルトはブロッケンマンを見詰め、改めて静かに口を開く。
「…帰るなよ。あんたは俺達の仲間だ。殴っちまって悪かったな」
「いや…当然の報いだと思っている…」
二人は顔を見合わせて微笑み、ゲルハルトが続けて問いかける。
「…で?お前の本当の名前は何ていうんだ」
「フランツ…フランツ・フォン・ブロッケンという」
「そうか…じゃあクラウス…じゃねぇフランツ…いや、お前はここではいつでもクラウスだ。それでいい…とにかく、これからもよろしくな」
ゲルハルトは笑顔で初めて会った時の様に、右手を差し出した。ブロッケンマンは今度は爽やかな気分でその手を握り返し、店の中から歓声が上がった。
「さあ、ローザ、本当の意味でのこいつの歓迎会だ!何か景気のいい曲をやってくれ!」
「ええ!」
客達はまた楽しそうな表情で騒ぎ始めた。その様子をゲオルクは穏やかな表情で見詰める。その表情にブロッケンマンはある感覚を覚え、彼に向かって口を開いた。
「ゲオルク…もしかしてあなたは、私の事を知っていたのでは…」
「まあな、あんたは隠してたつもりだった様だが、何となくは…な。でも今じゃ、それはどうでもいい事だろ?」
そう言うとゲオルクは笑って片目をつぶった。ブロッケンマンは微笑みを返すと、今は遠き地にいる女性に想いを馳せ、目を閉じる。
『アマーリエ、やっと言う事ができたよ。…何だか大きな荷物が降ろせた気分だ…』
その後はブロッケンマンも巻き込まれて、大騒ぎの一夜が明けた。店にいる客達が皆酔いつぶれて眠る中、ブロッケンマンは一人まだ酒を飲んでいた。
「…そうだ、あんたに渡すものがあるんだ」
飲んでいるブロッケンマンに、ゲオルクはこっそりと白い封筒を渡す。
「あんたへだ、手紙と一緒に入っていた。アマーリエも相当あ、んたの事が気になっていたらしいな」
そう言うとゲオルクはにやりと笑う。ブロッケンマンはばつの悪そうな表情で微笑むと手紙を胸のポケットにしまった。