そして公演当日、ブロッケンマンは白いバラの花束を手に会場に訪れた。入口で公演の関係者に『アマーリエ・シェリング嬢に渡して欲しい』と言付けて花束を手渡すと、彼は会場に入る。この会場は小さいながらも音響設備はいいものを使っている事で有名な場所で、彼は彼女が客演とはいえこの会場で演奏するだけの実力を認められたという事に、小さな喜びを感じていた。チケットに書かれた席に座り、暫くすると公演が始まった。この公演は若手の新進音楽家が集まった公演であるらしく、実力の多少の差はあったが、皆素晴らしい才能を秘めている事が分かる公演であった。それなりに公演を楽しみながらブロッケンマンはアマーリエの出番を待つ。そしてどの位時間が経ったであろうか。瞳と同じ緑のドレスを着たアマーリエが舞台上に現れ、ピアノの前に座った。彼は彼女の美しさと演奏に対する期待に一瞬息をのむ。そして彼女の演奏が始まった。彼女の演奏は見事の一言に尽きるものであった。ピアノの音が歌声の様に聴こえる程の技術の高さもそうであるが、何よりその音によって、その場に情景が見える気がする程の豊かな表現力に、彼を含めた会場の人間全員が彼女のピアノに聴き入っている。そして最後の一音が会場に響き渡った次の瞬間、会場から怒濤の様な拍手と歓声が響き渡っていた。アマーリエはその勢いに一瞬圧されるような素振りを見せたが、すぐに気を取り直し、優雅に一礼して袖幕の中へ入っていった。ブロッケンマンも心から彼女に拍手を贈る。そしてその後数人の音楽家が更に演奏を行い、公演は終了した。ブロッケンマンは公演が終わった後も暫く席に座り、彼女の演奏を反芻する。酒場にいた頃から彼女の技量も表現力もすばらしいものがあるとは思ったが、この数ヶ月の本格的なレッスンで、それが更に磨かれた様な気がした。『彼女はきっとすばらしいピアニストになる』彼はそう確信してゆっくりと席から立ち上がった。

「アマーリエさん、花束が届いているわよ」
「え?」
 演奏が終わって一息ついていたアマーリエに、係の女性が声をかける。
「ものすごいハンサムな男性からだったわ。あなたの恋人?けっこう隅におけないのね」
「もう、からかわないで下さい。私にはそんな人いませんよ」
「でもハンサムっていうのは本当よ。ただハンサムってだけじゃなくて、かなり印象的な人だったし。…あなたを名指しだったから早くあなたに渡そうと思って持ってきたわ」
「ありがとうございます」
 ウインクをする係の女性に微笑んでお礼を言いながら、アマーリエは花束を受け取った。受け取った花束を見詰めアマーリエは物思いにふける。

――私に花束をくれる人なんて誰かしら。…おじ様じゃないとするともしかして…でも、まさか――

 一つの期待に胸を膨らませる心と、それを打ち消す心。その二つの心に挟まれながら花束を見詰めていると、花束にカードが添えられている事に気付く。アマーリエは添えられたカードを読んだ途端、席から立ちあがる。

――今夜の演奏が素晴らしいものになるであろう事を確信している。第一歩を踏み出したあなたへ敬意を込めて――

「どうしたの?アマーリエ」
 出演者の一人がアマーリエの様子に気付いて声をかける。しかしそれも聞こえていないのか、アマーリエは花束を抱えたまま控え室から会場の外に飛び出した。外を見回して帰っていく客達の中から『贈り主』の姿を探す。と、客達が途切れた後に一人立っている、懐かしい男の姿を見つけた。
「フランツさん…」
 声をかけられたブロッケンマンは少し照れた素振りで口を開く。
「ここにいたら…もしかしたらもう一度姿を見られるような気がして、つい残ってしまった」
「まあ…」
 彼の態度に、アマーリエも恥ずかしげな表情で微笑むと、口を開く。
「まさか本当に来て下さるなんて…嬉しいです」
「いや、私もあなたがどれだけ実力をつけたのか聞いてみたかったし…それにあなたに礼も言いたかったから」
「お礼…?」
 不思議そうに小首を傾げるアマーリエに、ブロッケンマンは更に感謝の言葉を重ねる。
「酒場の人達に全てを話した。…そのきっかけを作ってくれたのはアマーリエ、あなただ。礼を言う」
「そんな、私がきっかけだなんて…からかわないで下さい」
 困った様に微笑むアマーリエに、ブロッケンマンは真剣な眼差しで続ける。
「いや、あの時あなたがああ言ってくれなかったら私はあの人達を、何よりあなたを騙し続けただろう。…それはあまりにも罪深い…」
「…」
「あなたが私に全てを話す勇気をくれた…心から礼を言う。ありがとう…」
 そう言って頭を下げるブロッケンマンを、アマーリエは慌てて押さえる。
「そんな、あの時の私はただ思っていた事を言っただけです。お礼なんてそんな…頭を上げて下さい」
「しかしそれが私の正直な気持ちだ。…あなたにはどれだけ感謝しても、し足りないと思っている」
 そう続けるブロッケンマンに、アマーリエは微笑みを見せて言葉を返した。
「お礼なんていりません。あなたが全てを皆に話した…それだけでいいじゃないですか」
「それで…いいのか?」
「ええ」
 そう言うとアマーリエは花束を見詰め、更に口を開いた。
「それにしても、こんなに豪華な花束。…何だか私にはもったいない様な気がします…でも、ありがとうございます」
 嬉しそうに微笑んだアマーリエを眩しげに見詰めながら、ブロッケンマンも言葉を返す。
「いや…でもまた白い花になってしまったな。…何だかあなたには白が似合う気がして、つい買ってしまったんだが…」
「いえ、私も白が好きですから嬉しいです。…でも…」
「でも?」
 ブロッケンマンの問う様な眼差しに、アマーリエは少し迷う素振りを見せ、やがて今までで一番美しい微笑みを見せ、その『答え』を返した。
「あの駅でもらった花束が、私には何より嬉しかったです…」
「アマーリエ」
「他の誰からでもなく、あなたからもらった最初の花束、誰からもらったどんな豪華な花よりも、私は一番嬉しかった。…おかしいですね、まるであなたに恋をしているみたいだわ」
 そう言うとアマーリエは恥ずかしそうに俯いた。その姿にブロッケンマンは愛しさがこみ上げてきて、花束をつぶさないように彼女の肩に手を置いて彼女に囁きかける。
「私もだ。…あの花を摘んだときも、この花を選んだ時も、私はあなたの事を考えて幸せだった…私もあなたに恋をしているのかもしれないな」
「フランツさん…」
「これが本当に恋の始まりなら…素晴らしい事だと思わないか?お互いが想い合う事ができる恋を…初めからできるのだから」
「そうですね…」
二人は顔を見合わせて微笑みあう。そして、彼女の手から花束が落ち、二つの影が一つになった――