そうして秋が大分深まってきたある日、不知火は白新高校に向かっていた。ここは部活動のための合宿だけでなく県外入学者のための寮もあり、学費免除制度もあった。何より野球部のキャプテンである大久保誠は堅実さと大胆さを兼ね揃えたリードをするキャッチャーで、神奈川で一番有名である明訓の土井垣ほどは騒がれないものの、実力は勝るとも劣らない男だと聞いていた。その噂が本当ならここが決定打になるかもしれないと地図を見ながら歩いていると、不意に路地から出た時、見えない目の死角になっている所から自転車の急ブレーキの音と、その後にガチャーン!という音。そしてその音の元である横転した自転車が彼の目の前に現れる。不知火はいくら見えないとはいえ不注意だったと後悔しながら、横転した自転車の横に座り込んでいるその運転者である自分より少し年下位に見えるセーラー服の少女に声をかける。
「すまない、大丈夫か?」
少女も申し訳なさそうに彼に言葉を返す。
「いえ…こっちこそすいません不注意で…ぶつかってませんか?ケガありませんか?」
「俺は全く無事だよ。むしろ君の方が大ケガじゃないか」
彼女のめくれたスカートから見える足にはかなり派手な擦り傷ができていた。少女はそれに気づいてさっとスカートを元に戻すと、取り成す様に明るく笑って立ち上がろうとする。
「ああ、これ位ならしょっちゅうやってますから大丈夫です。気にしないで…っ!」
立ち上がろうとした少女は立つどころかそのまま座り込む。その痛みに歪んだらしい顔を見て、不知火は慌てて声をかける。
「君、どうしたんだ!」
不知火の声に、少女は足が痛むらしく少し歪んだ笑顔だが、やはり取り成す様に笑って答える。
「あ、すいません、立とうとしたらちょっと足が痛くて…でも大丈夫です。何とかしますから」
「いや、その様子だと歩くのは無理だろう。乗り掛かった船だ。医者に連れていくよ」
「…いいんですか?」
「ああ、けが人を置いて行くほど俺は薄情じゃないよ」
「じゃあ…すいませんがこの近所に家族でかかってる整形外科がありますから…連れて行ってもらえますか」
「ああ。じゃあ後ろに乗せるから、道案内は頼んでいいかな。俺はこの辺り不案内なんだ」
「分かりました」
少女は不知火に支えられながら足の事があるので自転車の荷台部分に横座りになり、彼が彼女の学校用らしいバッグをカゴに入れ、自転車に乗ったところで「…この乗り方だと危ないんで…失礼します」と彼の腰に腕を回す。学生服を通して伝わってくる少女の体温と柔らかい感触にふっと戸惑いながらも、彼は彼女に危険が及んだり、足が痛まない様にゆっくりと彼女の道案内で自転車を走らせる。自転車を走らせながら、何故か自分と彼女がこうしている事がとても自然な事で、彼女とはずっと前からいつもこうしていた様に思えてきた。どうしてそう思ったのかは分らない。でも不思議とどこかから香ってくるほのかな金木犀の香りがする風を受けながら、彼女と出会えてこうしている事に胸が弾む自分も感じていた。そうしてしばらく自転車を走らせ、目的の整形外科に辿り着く。医師は二人から話を聞いてレントゲンを撮り、診断を告げる。
「う~ん、ちょっと見づらいけど…この写真だと9割方欠けたか…ひびが入ってるな」
「え?見づらいってことはそんなに酷いんですか?」
「酷くはないよ、場所の問題。足の甲のちょうど真ん中くらいのところでレントゲンだと写りづらいところなんだよ。今の話とこの場所が欠けたかひびだとすると、急ハンドル切って転んだ時の転び方が良くなかったんだと思う」
「そうですか…すまない、君…俺の不注意で」
「いえ、私も不注意だったしスピード上げてたんで…」
「ほらほら二人ともそんな顔しない。もうこうなっちゃったんだから原因探ししてもしょうがないだろう?まあ運が悪かったと思って諦めなさい。ひびだからちゃんと治さないと厄介だけど、その分ちゃんと固定してれば一か月かからないでリハビリできるよ。それにこの位のひびなら安静を守ってもらえるなら入院の必要もないし、ギプスじゃなくて固定で大丈夫だし。今作るからそれで固定して、しばらくはとにかくできるだけ冷やして、休む時はなるべく足を上にあげて、固定だと動かしたくなるだろうけど、極力動かさない事。それから湿布を取り替えに、毎日ここに来る事。分かったね」
「…はい」
そうして少女は足に固定をつけられ、その後の会計の段になって彼女の手持ちのお金では足りない事が分かり、受付は彼女の手持ちのお金を確認して、『帰りはタクシー使わないとダメでしょう?とりあえず1000円下されば、後は明日シップ換える時に持ってきて下さればいいですよ』と言ってくれたが、それを見ていた不知火は元はと言えば自分の不注意で彼女が怪我をしたのだからと、ちょうど持ち合わせもあった事もあるが、会計を肩代わりして全額支払った。会計を済ませた後彼女は彼に心からのお詫びの言葉をかける。
「すいませんでした。ここまで連れて来させただけじゃなくって、お金まで払わせてしまって…あの、これ以上付き合わせる様で悪いんですけど、一旦家に一緒に来てもらえますか。まだ両親は二人とも仕事で帰ってきてませんけど、一緒に待ってくれればどちらか帰ってきたら訳を話してお金返しますから」
少女の心からの言葉に、不知火は宥める様に言葉を返す。
「いや、君一人しかいない家に男の俺が入るわけにはいかないよ。それに…このケガは元はと言えば人一倍注意しなければいけないのに周りに気を配らなかった俺のせいだから治療費は払うのが当然だ」
「『人一倍注意がいる』って…どういう事ですか?」
「ああ…」
不知火はいつもなら細心の注意を払って隠しているのに、何故かうっかり口にしてしまった言葉を後悔する。しかし言ってしまった言葉は戻せないし、何故か彼女には自分の『秘密』を話してもいいかもしれないと思い、学帽を取ってその『秘密』を見せる。
「実は…こういう事でね」
「!」
その『秘密』を見た少女は驚愕の表情を見せる。不知火の左目は白く濁っていたのだ。彼は学帽を被り直すと、驚愕する少女に『何でもない』という風情で続ける。
「そんな顔しないでくれ。生活にそれほど不自由はないから。でもあの時はこの目のせいでちょうど君が来た所が俺にとっては死角だったんだ。死角が多いんだからより気をつけないといけないのに注意散漫だった俺が悪かった。すまない」
「…」
少女は不知火の言葉にまた顔を歪ませると大粒の涙を零し、謝りながら泣きじゃくり始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…!」
その涙で不知火は安心させるための行動で逆に彼女を傷つけてしまった事に気づき、彼女を宥めるために静かに言葉を続ける。
「…すまない、余計な事を話したな。泣かないでくれないか。泣かれると俺も辛くなる」
「でも…」
申し訳なさそうにしゃくりあげたままの少女を何とかして笑わせようと、不知火は最後まですべて話す事にして、彼女に視線を合わせながら、優しい口調でさらに言葉を重ねる。
「仕方ないな…じゃあ泣かれると辛いから最後まで話すか。こんな目だけどな、今の状態を保っておけば、角膜移植をすれば治るって言われているんだ。まだアイバンクの順番が回ってこないが、順番が回ってきさえすれば君の骨折と同じで、必ず治る。だから大丈夫なんだ」
「…そうなんですか?」
「ああ」
そう言って不知火はふっと笑う。それにつられた様に少女も泣き笑いながら微笑みを返した。そうして笑い合った後、少女は静かに言葉を紡ぐ。
「そうだ。やっぱりお金は大事ですから…家に行くのが嫌でしたら、兄の所へ連れて行ってもらえますか。今なら部活をしてる時間なんで、そこで父に車で来てもらうように連絡して、待たせてもらいますから。そうすれば自転車も運べますし、お金も払えます。それなら一緒に待ってもらえますか?」
彼女の不知火を心から気遣う心が分かったので、彼はその言葉に甘える事にした。
「そう言う事なら…じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
「ありがとうございます…また自転車運転させちゃいますけど」
「かまわないよ。何だか…君とはもう少し一緒にいたい気もしてるんだ」
「え?」
「あ、いや…すまない。何言ってるんだろうな」
自分の口から零れ落ちた言葉に、不知火は狼狽する。彼女も戸惑う様に顔を赤らめている。彼は自分でもこの言葉の理由が分からないので、うやむやにするために話題を変えようと言葉を重ねる。
「ま、まあそれはともかく…君のお兄さんがいる所はどこなんだ?」
不知火の問いかけに、少女も戸惑いながら言葉を返す。
「あ、その、ええと…ここからそんなに遠くないです…白新高校っていう高校なんですけど」
「白新高校!?」
まさかこんな所で目的地が出るとは思っていなかったので不知火は声を上げる。
「あ、はい…何か?」
不知火の様子に驚いた表情を見せている少女に、彼は説明する様に言葉を続ける。
「いや、縁というものはあるんだなと…ちょうど君にぶつかった時に行こうと思っていた場所なんだ」
「そうなんですか」
「丁度良かった。そういう事なら大歓迎だ、連れて行ってくれないかな」
「はい」
そう言うとまた二人は自転車に乗る。この不思議な偶然に、ケガをさせてしまった事は申し訳ないと思ったが、不知火は不思議な縁を感じた。もしかするとここが自分の行くべき高校なのかもしれない。それと共に彼女と出会った事にも何か意味がある様に感じた。それが先刻も、そして今も感じている不思議な既視感の理由かもしれないと思いつつ、今はそうした事を考えず、ただこうしている事の不思議さと心の底から湧きあがってくる楽しさに浸っていようとやはりほのかに香っている金木犀の香りを感じながら彼は自転車を走らせていった――