そして帰る段になって、不意に関谷と宇佐美と後藤が「本当ならここでメンバーと面通しの飲み会なんだろうけど、今回は緊急事態だから、先にこれからの打ち合わせをしたいんだ。だから今回はこのメンバーでちょっと飲みに行こう。遅くならない様にするし、どうせ一緒に帰るんだろうから若菜ちゃんも連れて来ていいし」と義経と若菜に声を掛けてきた。若菜は義経を誘った三人の本心が分かった様で、義経に「光さん、行きましょう。今日思った事をきちんと皆さんにお話しして下さい」と彼を促した。義経も三人と若菜の気持ちを汲み取って「では…ご一緒させて下さい」と応え、五人は小田原駅傍の居酒屋へ行く。それぞれ飲み物とつまみを頼み乾杯した所で、後藤が静かに言葉を紡ぎ出す。
「…義経、すまなかったな。無理を言っちまって。でも宇佐美さんが言った通り、俺は真佐子が連れて来る様な役者に役を任せたくなかったんだ。それは秀さんも宇佐美さんも同じだと思う。だからあんな確かに無謀だと思う事にも乗ってくれたんだろ?」
 後藤の言葉に関谷と宇佐美も言葉を続ける。
「ああ。多分脚本を読んで今の稽古を見たら、相当穴がある事に気付いたんじゃねぇか、義経君」
「あ…はい…素人なのにこんな事を言っては失礼だと思いますが、折角の脚本の感動や勢いが弱くなっている様に感じてしまいました」
「…やっぱり分かっちゃうんだね。義経君の言葉は正しいよ。今の稽古は昔と違ってダラダラしているし、もちろん若菜ちゃん始め芝居を一生懸命する人間もいるけど、ほとんどの皆は芝居を作るというより、自分が目立つ事ばかり考えてしまっている。それに、ゴンちゃんが脚本に込めた心を読み取ろうとしない。それの端的な例が…主演女優の彼女だ。主役を張っている今言った真佐子ちゃんの態度…気にならなかった?」
 そう言われてふっと今日の稽古の様子を思い返し、ある事に気づいてそれを言葉として返す。
「そう言えば彼女は稽古にかなり遅れてきていましたが…『遅れました』の一言もなく、その時代役をしていた若菜さんにお礼を言うでもなく、稽古に入っていましたね」
 義経の言葉に関谷は厳しい表情になって言葉を紡ぐ。
「彼女は確かに華がある。一応ファンも多いしチケット売りも段違いにしてくれる。だけどそれに胡坐をかいて、自分は主演女優なんだから何をしても許されると思っている節があるんだ。だから役も主演の目立つ役が来るのが当然だと思っているし、芝居を壊しても目立とうとする事もあるんだ」
 その言葉を受け取って、宇佐美が続ける。
「それに何より周りに対して傲慢だ。遅れて稽古に迷惑を掛けた事も申し訳ないという謙虚な心がないし、代役をしていた人に対して感謝の心もない。それどころか神保君に対する態度に至っては、取るに足りない、いてもいなくても同じ存在で、彼女の意見なんか取り上げる価値もない様な見下した態度を取る事も少なくない。それに、皆の態度でも分かるだろう?秀さんは確かに座長だが、実権はないに等しい。座の発展と存続に永年力を注ぎ続けてくれた事への感謝もない。自分達が座を盛りたてているつもりになって、座長はややこしい雑用を押しつけるために秀さんにやらせてる様なもんなんだよ」
 宇佐美の言葉に、若菜が更に言葉を重ねる。
「私にも…言わせて下さい。…光さん、台本を読んで言いましたよね。『皆さんの演技だけでは分からなかった。こんなに素晴らしい脚本だったんだな』って。…あの時は他の人の目があったから言いませんでしたが、光さんが感じた事は正しいんです。座長達はもちろん違いますが…後藤さんの前でこんな事を言うのは嫌なんですが、今の座員のほとんどは…後藤さんの作品を嫌う人が多いんです。『言葉が難しい』とか『話が重くて疲れる』とか、酷いと折角来て下さってるお客様まで馬鹿にしている様な『どうせ難しいから毎回お客は寝てるでしょ』とか…まるで粗探しをするみたいに難癖をつけています。それにそんな脚本だから乗る事も出来ないと言いたげに、稽古もダラダラ緊張感のないままただ流すだけ。それで批判などは何も言わない私などには自分達に合う芝居をしないと、強い口調で叱責します。反論すればもっと怒るだけだと分かっているから、私はただ聞いているんです。光さんはその雰囲気をちゃんと掴んでいたんですよ」
「…そうだったんですか。…でもどうしてそんな込み入った内部事情まで、若菜さんも含めて僕に話して下さったんですか」
 義経の問いに、黙っていた後藤が静かに言葉を返す。
「…あの時言った通り、お前が芝居に関して素人だったとしても、俺はお前の中の『役者としての実』を見たから今回の役に推した。だから責任を持ってお前の身を守るため…それでできたら神保の身も守って欲しいからだ」
「後藤さん、それは…」
「俺達は今言った様に思っているが、あいつらにしたらぽっと出の素人の男に目立つ役を与える様な、ああいうごり押しをしたんだ。それだけじゃない、今回の神保の抜擢も内心は真佐子達は苦々しい思いをしている。だからあいつらにしたら神保のコネでお前をいれたと考えて、お前に対してもある事ない事稽古中に叱責するだろうし、下手をするとお前にも神保にも『芝居を降りろ』と脅迫電話ぐらい掛けてくるかもしれない」
 『脅迫電話』という余りに物騒な言葉に義経は驚いて言葉を返す。
「そんな…いくら不満があるからと言って、そんな無分別をいい大人がする訳が…」
 驚いた義経の言葉に、関谷が静かに言葉を重ねる。
「ところが…あったんだよ。そんな『無分別な事』が。しかも今年だ…身内の恥を晒す様だけど、君には言おう。今年この座の芝居が好きだって新人で入ってきた役者希望の青年に、最初の場面で今日君には藩主役は荷が重すぎると即座に言った女優の娘と絡むから結構目立つ植木職人の役を割り振ったんだよ。…彼もやる気で一杯だった…ところが立稽古に入ってすぐに僕個人あてに『役を降ろさせて下さい、座も辞めます』と言ってきた。…何があったのかと話を詳しく聞いてみたら、重い口調で『役を降りろ』という脅迫電話がかかってきたと教えてくれた…犯人の目星は付いていたし、これは明らかな犯罪行為だ。僕は被害届を出す様に言ったが、その彼は首を振って『僕が辞めれば全てが丸く収まります。座に迷惑をかけるのは本意ではありませんから、どうかこのまま辞めさせて下さい』と辞めて行った。…真面目ないい子だったから余計に悪い事をしたと思ったよ。『歴史のある、素晴らしい芝居をする劇団』、その実態はそんな人間が実権を持ってしまっている座なんだよ」
「…そうなんですか」
「でも、俺らは君の味方だ。君は君らしく芝居をやってくれればいい」
「それをいいものに磨きあげる努力を、僕達は惜しまないつもりだよ。そういう意味で、若菜ちゃんとしては今日の稽古で彼の感性をどう思ったかな」
「光さんは…後藤さんの心をちゃんと受け止めていました。だから、きっといい芝居ができるって…信じています」
「そうか。こう見えて神保の芝居に対する感性と真面目さを俺は買ってる。その神保にそう言われたんだ。お前の持っている物を信じろ。俺はお前の野球での姿勢もテレビ越しにだが見ていた。その姿勢を見たから下手に芝居慣れして気取った芝居をやる奴にはない心の芝居が、お前にならできると思って俺はああ言ったんだ」
「皆さん…」
 一同の言葉に義経は胸が一杯になる。自分を買ってくれる事もそうだが、何より芝居をいいものにしたいという彼らの想いが痛い程分かったのだ。自分に何ができるかはわからない。でも若菜の、そして彼らの想いを絶対に無駄にはしないと言う決意を込めて、義経は言葉を紡ぐ。
「ありがとうございます、僕をそこまで買って下さって。…そして皆さんの芝居に対する情熱が今の話で良く分かりました。この経験はきっと野球に生かせると思いますし…何より皆さんの情熱を無駄にしないためにも…精一杯務めます。妨害などは任せて下さい。僕が…自分自身と若菜さんを…そして皆さんの芝居に対する情熱を、僕のできる形で、絶対に…守ります」
「義経君…」
「光さん…」
 義経の言葉に一同は言葉を失いつつも、決意を込めた笑顔で頷いた。そして関谷が明るく声を上げる。
「じゃあ、誓いの杯だ。いい芝居にするために…頑張ろう!」
「はい」
 そう言って改めて乾杯した後は細かい打ち合わせをし、稽古の日以外で義経がオフで東京に戻ってきている時には小田原へ来てもらい、関谷の家で宇佐美と共に演技についての指導を受け、金曜土曜等にマンションに戻れる状態ならば、若菜が出向いて彼の感じた事から出てきた演技を二人でまとめる事に決まり、その後は楽しく飲んで話して別れた。

 帰って来た若菜の家の彼女の部屋で、二人は酔い覚ましのお茶を静かに飲んでいた。その内に、義経は静かに彼女に声を掛ける。
「…若菜さん」
「はい?」
「…今、俺はあなたの芝居を初めて観に行った後の食事の席で、あなたが話していた事を思い出していた。今日の話を聞いて…あの時の若菜さんの明るさのなかに一瞬あった、寂しげな表情を思い出して…正直、胸が痛んだ。…若菜さんがこれほどに辛い立場にいながら明るく振る舞っていた事に気付かなかった…あの時の自分が情けなくて」
「光さん、そんな事言わないで下さい。私は芝居ができれば何でも嬉しいんです。その中で後藤さんの作品が何より好きだから…私は何も辛い事はありません」
「そうかもしれない。でも辛い事もきっとたくさんあるんだと…俺は感じた。この思いは間違っていないと確信している。でも」
「でも?」
「あなたはそんな中で精一杯後藤さんの脚本の心を表現して、芝居をいいものにしようと努力をしている。俺はそれを知って、今日の話を聞いて、あなたの芝居がとても尊いと思うし…何よりそうしているあなたが…更に愛おしくなった」
「…光さん」
「正直な所、自分に何ができるか分からない。でもあなたの芝居を…何よりあなたを俺は守る。それだけは決心がついた」
「…」
 義経の言葉に、若菜は静かに俯いた。その目に涙が光っているのを見つけて、彼は彼女を抱き寄せてその耳元に囁く。
「泣かないでくれ。…あなたが笑顔で懸命に芝居をしてくれるのが、俺の安らぎで励みだ。…だから今日あなたが言った言葉を返す。『俺はあなたと舞台に立てるのが嬉しいし、何より心強い』だから…さっき言った通り、皆さんのために…何よりあなたのために…俺は全力を尽くす」
「光さん…ありがとうございます」
「だから…俺に力を貸してくれ。芝居と野球を両立させてそれぞれに生かすために、何より…あなたを守るために」
「…はい」
 そう言うと二人は唇を合わせた――