数十分後、撮影用のメイクをして狩衣と冠烏帽子という姿に身を包んだ義経がスタジオに現れる。その雅ではあるがむしろ精悍さが引き立つ姿にスタッフは軽く口笛を吹いた。遠山は義経の姿に頷きながらも注文をつける。
「やっぱり睨んだ通りだ。義経君よく似合ってるよ。ただそんなにいつものプロ野球選手の雰囲気出して固くならないで。光源氏なんだからもっと柔和な感じで」
「…はあ」
言いたい事は分かるが、正直素人の義経にはどうしたら自分の雰囲気が柔らかくなるか分からない。芝居の時には自分の心をそれとなく切り替えてくれる若菜がいたからそうした変化ができたが、今回はそうなってくれるか。せめて彼女が側にいてくれたなら――そう思いながら彼女がやって来るのを待って控室のある方向を見ていると、華やかな装束に美しく化粧をした女性がやって来る。よく見て瑠璃だと義経は理解した。しかし確かに美しいのだろうが、義経の心は全く動かない。こういうと偏見かもしれないが、彼女の美しさはただ自らを美しく飾り立て、周りを幻惑する事にしか興味がない様に見えてしまうのだ。そんな冷めた視線なのに義経が自分を見ている事に気づいて自分に興味を持ったと思い込んだらしい瑠璃は、重くて動きにくいだろうに寄って来て、先刻以上にあからさまな蠱惑的な眼差しと口調で彼を見詰めながら問いかける。
「どうですか?私の実力、これで認めまして?」
「…」
義経は答えるのも面倒だと思い黙って瑠璃の傍を離れようとするが、スタッフ達がはやし立てる様に彼らに声を掛けて足止めした。
「いや~瑠璃ちゃん美人!」
「義経君も美形だし美男美女でお似合いだよ~」
「こりゃコンペする事もないかな~」
「そうですか?」
なれなれしく義経に媚態を込め擦り寄り、猫撫で声を出す瑠璃が申し訳ないとも思うが鬱陶しくなって、どう離れようかと考えあぐねていると、不意に控室につながるスタジオの入り口がざわめく。ふと見ると若菜がそこにすっと立っていた。そして――彼女の姿を見た義経と遠山以外のスタッフが爆笑する。彼女は末摘花の扮装をしていたのだ。その装束は襲も撫子の襲といわれる蘇芳と白のみというひときわ質素な装束。その上メイクした顔は一見醜女の上鼻は赤く塗られ目立ち、確かに彼らが笑うのもおかしくないかもしれない。でも――
「何でわざわざ笑いとる扮装するんだよ~!」
「でしょう?私も止めたんですけど」
「これじゃコンペになんかな…ん」
嘲笑に近い爆笑をしているスタッフや瑠璃達等全く気にならない風情で若菜の所へ義経がすっと寄っていく。若菜は近づいて来る彼に幸せそうな微笑みを見せる。その微笑みで彼女の印象が一気に変わった。確かに彼女の微笑みは醜いはずなのに、同時に愛嬌があり、純粋で、その愛嬌と純粋さ故彼女を包む雰囲気は可憐ですらあったのだ。そんな彼女に息をのむスタッフと瑠璃を尻目に、義経もその若菜の微笑みに微笑みを返して彼女の手を取る。確かにその一連の二人のやり取りには愛とは少し違うかもしれないが、心の通う情があった。そして全ての人間が彼女の表現に驚嘆する。彼女は微笑み一つで彼女の中の末摘花を体現したのだ。たとえ光源氏が間違いで手を出しただけで、彼に対して愛情からとはいえ一切合切的外れな行動しかしない女だったとしても、最後まで面倒を見続けただけの的外れではあっても、真っ直ぐな純粋さと優しい愛情の深さという魅力を持った女性というある意味珍しい末摘花像を――そして義経も瞬時にその彼女の『演技』に気づいてその流れに乗った。彼女の一世一代の『演技』に身を任せて――そして一枚の絵の様な二人に対しスタジオの一角から拍手が聞こえ、それが段々と大きな拍手へと拡がっていき、スタジオ内全員からの拍手が止まった所で遠山が静かに口を開く。
「…勝負あったね」
「遠山先生!」
「瑠璃ちゃん。確かに君は綺麗だし、装束も似合ってる。でもね、正直に言うけど義経君側に君に対する情が全く見られないんだ。そんな状況じゃいい写真が撮れないって事…瑠璃ちゃんなら良く分かってるよね。それに若菜ちゃんが来た途端義経君の雰囲気が一気に変わって…場の空気が変わった事も…分かったよね」
「…!…失礼します!」
瑠璃はプライドをズタズタにされ、怒りの余り今までの媚態はどこへやら、声を荒げ荒々しくスタジオを出て行き、それをマネージャーが慌てて追って行った。それを見た若菜は彼女に悪い事をしたかもしれないとほんの少し後悔したが、それでも義経に対する媚態や自分に対する傲慢な態度には耐える事ができず、しかし掴み合いのけんかなどができないのだから、こうして同じ場所で勝負をつけるしかなかった事は自覚していた。その自覚のままに若菜は瑠璃に心の中で頭を下げつつも、義経の隣にいられる幸せを実感していた――
そうして若菜はメイクを一新してもらい、今度は紫の上の装束を着てスタッフの前に現れる。今度は一見は人形の様なただ可憐に整った顔を作っていたが、撮影が始まり遠山の指示に従って義経とともに被写体になると、その表情や顔の向き、立居振舞からくるポーズがその人形の様な顔に表情を与え、静かだが光源氏の理想の女であるが故の幸せと苦しみ、彼に対する愛憎等を見事表現していく。そして義経もその彼女に引き込まれる様に『光源氏』として被写体になっていた。そうして撮影はひと波乱あったものの大成功に終わり、明日屋外でのロケをするという事で撮影は終了した。そうして無事に終わって安心した様に互いに微笑み合っている義経と若菜に遠山が不意に声を掛けてくる。
「二人とも、お疲れ様」
「あ、はい。お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日は本当に申し訳ありませんでした」
頭を下げる若菜に遠山は慌ててその頭を上げさせると言葉を掛ける。
「ああ、頭下げなくていいから…瑠璃ちゃんも怒っていたけどちゃんと君との差、分かってる。だから負けたのが悔しくて出て行ったんだよ。だから君は胸を張って。それにね…正直な事を言うと、コンペなんて僕は不要だって分かってたんだ」
「どういう事ですか?」
訳が分らず問いかける義経に遠山はにっこり笑って答える。
「瑠璃ちゃんにも言ったけど、義経君瑠璃ちゃんに対してあまり興味持てなかった…むしろ引いてたろう」
「ああ…はい、申し訳なかったですがああいう女性はどうも苦手で」
「プロなら何とかできるかもしれないけど、アマチュアの君がそんな状態でいい写真なんて撮れないよ。それに、どんな状況でも義経君は若菜ちゃんを護ってた。そんな君達の間に入れる女性も男性もいない。そんな君達の絆の深さ…それが僕の中の光源氏と紫の上にあって欲しいものだったんだ」
「そう…なんですか」
「ああ。ただ一つ若菜ちゃんに聞きたい事があるんだ。君の一見醜いけど本当は愛嬌があって純粋な所が可愛い末摘花と、一見人形みたいなのに熱い情念を持っている紫の上って…源氏物語研究では余り出てこない人物像だね。どこでこの人物像を知ったんだい?」
遠山の問いに、若菜は静かに微笑んで答える。
「邪道かもしれませんが…以前劇団の資料にあった北條秀司先生の『末摘花』の戯曲版を読んでいたので、そこで書かれていた末摘花と紫の上像を私なりに解釈したんです。この作品の末摘花の女としての純粋さや優しさや哀しみと、光源氏が語るたった一言の紫の上像が…とても印象に残ってましたから。後同じ北條先生の『浮舟』や、比較的手に入りやすかったラジオドラマ版の脚本を纏めていた著書も読んで、私なりの源氏物語像を考えたりもしていました」
そう言って微笑む若菜に遠山は納得がいったと頷き言葉を紡ぐ。
「北條秀司…っていうと、『王将』とかが有名だけど、源氏物語でも歌舞伎で『北條源氏』って一ジャンル築いてる大御所脚本家だね…つまり君は『台本』を使って役者として一世一代の芝居をしたって事か。それに義経君も乗った…と」
「はい。僕をこうしてこうした場に違和感なく立たせてくれる力をくれるのは彼女だけですから。彼女の心のままに身を任せれば大丈夫だと…僕は信じていました」
「そうか。じゃあ残りのロケもその気持を持って成功させよう」
「はい」
「頑張ります」
「さあ中締めだ。君達も気兼ねなく飲んでね」
そう言うと遠山は二人から離れていった。それを見送った後、二人は微笑み合って着替えのために一旦別れた――