翌日、俺はまた試合前に彼女の様子を見て行こうと彼女の病室へ足を運んだ。病室を見るとそこに彼女はおらず、代わりに少し疲れた表情の彼女に良く似た面差しの初老の男性が立っていた。彼女と文乃さんの父親である雅昭さんだ。雅昭さんは入って来た俺に気が付くと、疲れた表情ながらも温和な笑みを見せて俺に声を掛ける。
「やあ、将君久し振りだね。…お正月以来かな」
「ええ…お父さん、お久し振りです。葉月さんはどうしたんですか」
俺が重い口調で挨拶を返し更に問いかけると、雅昭さんは温和な口調のまま答えてくれた。
「ああ、朝一番から検査に行っているよ」
「そうですか。あ、今日はお母さんは連れていらっしゃらなかったんですか」
「ああ。入院したって聞いて来たがっていたが、今回は残ってもらったよ。事情が事情だけに負担が大きいと思って、六花子さんには詳しい話は伏せているからね。…話は文乃と医者から聞いた…迷惑を掛けたね、将君」
「いえ…葉月さんがこうなったのは自分のせいです。お父さんに殴られても文句は言えません。いや…殴って下さい、お願いします!」
「そうか…じゃあそうさせてもらおうかな」
そう言うと雅昭さんは俺に向かって手を振り上げる。思わず俺が目を閉じると、次の瞬間頬の痛みの代わりに温かな体温が伝わってくる。俺が目を開けると、雅昭さんは俺を抱き締めてくれていた。
「そんなに自分を責めないでくれないか。君は何も悪くない。そして…あの子もな」
「…」
俺はしばらくそのままになっていた。やがて雅昭さんは身体を離すと、温和で静かな口調のまま俺に問いかける。
「将君。言いにくい話だろうが…あの子がああなった理由は何だと思う?」
雅昭さんの問いに俺は胸が苦しくなったが、それでも今言えるだけの精一杯の答えを返す。
「すいません。自分には全く分からないんです…でも、多分…自分の存在が重荷だった事が原因の一つだとは…思います」
「そうか…でも、私は違うと思う」
「え?」
問い返す俺に、雅昭さんは静かに言葉を紡ぎ出した。
「君は…知っているんだよね。『あの事』の真相を」
「お父さん、何でそれを…?」
「あの騒動があった時にあんまり私達が心配していたからか、文乃が白状したんだよ。…『あの事』は自分から君に話してあるから、君は分かってくれているってね」
「そう…ですか…」
雅昭さんはゆっくりと、更に言葉を紡いでいく。
「でもその事を葉月は知らない。だからいつの頃からか記憶から消していた『あの事』を思い出していたあの子は、君に対する負い目になっていたんじゃないかな。『あの事』で自分は汚れてしまったから、君にふさわしくない存在だと思い込んでね。でも君を失いたくなかったから黙っていて…それがあの騒動ででたらめな内容とはいえ、暴露されて思い詰めたんだと思う。こんな汚れた自分じゃなくて、真っ更な自分で君に出会いたかった…ってね。この騒動で死のうとまでした事と戻った年齢を聞いた時、少なくとも私はそう思った」
「お父さん…」
「なあ将君…あの子は汚れていると思うかい?」
「そんな……彼女のどこが汚れているって言うんですか!」
俺の言葉に、雅昭さんは安心した様に微笑むと更に言葉を返す。
「その答えで安心したよ。答えの内容と答え方によっては、本当に君を殴っていた所だ」
「…」
「本当に馬鹿な子だよ。誰もあの子が汚れているなんて思っていやしないのに、自分が思い込むなんて…」
そう言うと雅昭さんは哀しそうな目で天井を仰ぐ。俺はそれをただ見ている事しかできなかった。そうしてしばらく気まずい沈黙が続いている中、その沈黙を破る様に彼女が車椅子に乗って病室に戻って来た。病室に入って俺の姿を見付けた彼女は、驚いた口調で俺に声を掛ける。
「あれ、土井垣さんだ。今日も来てくれたんですか?」
「…ああ、君と俺とは仲良しだって言っただろう?昨日の様子が心配だったからな。今日もちょっと様子を見に来たんだ。どうだ、頭はまだ痛いか?」
「ううん、今日はあんまり痛くないです」
「そうか…しかし車椅子なんてやっぱりどこか悪いのか?」
「ううん、一人で歩けるって言ったのに乗せられたの」
「検査で具合が悪くなって帰りに歩けなくなったら大変でしょう?乗ってくれた方が安心ですから」
「そうですか」
「一人で歩けるのになぁ…」
「駄目です。とりあえずは自由ですけど、こうした事は私達の言う事を聞いてもらいますよ…では私はこれで。後はご家族でお願いします」
車椅子を押していた看護師の言葉に俺は納得したが、彼女はまだ納得がいかないかの様に頬を膨らませる。彼女の様子に看護師は優しく、しかしきっぱりと注意すると、彼女をベッドに戻し俺達に声を掛けて病室を出て行った。看護師が出て行くと、彼女は嬉しそうに俺に声を掛ける。
「びっくりしました、今日も来てくれるなんて。でも嬉しいなぁ…あ、ごめんねお父さん無視しちゃって。お父さんが来てくれたのもすっごく嬉しいんだよ。遠くて大変だったでしょ?ここ、東京だもんね」
自分を見詰める雅昭さんの姿を見て、彼女は取り成す様に雅昭さんにも声を掛けた。雅昭さんはその言葉ににっこり笑って彼女に言葉を返す。
「いや、お前の元気な姿を見られただけでも来たかいがあったべ。検査入院とはいえ入院だからちょっとは心配だったからな」
「うん、心配させちゃってごめんねお父さん。…あ、ねえ…お姉ちゃんが言ってたけど、お母さん、病気になっちゃったって…大丈夫?もしかしてすごく悪いの?」
「…いや、大した事はないだ。今日だって来たがっていたしな。ただ遠出して疲れると可哀想だったから、ここへ来るのは我慢してもらったんだ。それより、お前はお前の心配をする事。お母さんの事はお前が心配する事じゃない。お父さんが心配する事だ」
「うん。…そうだ、折角来てくれたのを追い出す訳じゃないけど、そんなだったら早くお母さんの所へ帰ってあげて。いつも元気でバリバリ仕事してるお母さんが病気ってだけで心配じゃない。そうじゃなくても、ああ見えてお母さんお父さんの事すごく頼ってるから、きっとお父さんいないの寂しがって、帰って来るの待ってるよ。あたしは一人で大丈夫だし、お姉ちゃんも来てくれるみたいだから何とかなるよ」
「そうけ…じゃあお前の元気な姿も見た事だし、お母さんの所へ帰ってあげるべぇか。お前もいい子にして早く退院するだぞ」
「うん、分かった」
「…じゃあお父さんは帰るからな。早く退院して、お母さんに元気な顔を見せてやるべな」
「うん、バイバイお父さん。お母さんに無理しないでって言ってね。あ、外まで送るよ」
「…いいだよ、お前はゆっくり寝ていろ」
雅昭さんはにっこり笑って彼女の頭を撫でると、病室から出て行った。俺は雅昭さんの笑顔に翳りを感じ、雅昭さんを追って病室を出る。彼女も付いて行きたがったが、俺が「お父さんと二人でお話したいから待っていてくれ」と言うと、素直に頷いて病室に残った。
「お父さん」
俺が雅昭さんに追いついて声を掛けると、雅昭さんは弱々しい笑顔を見せて呟いた。
「あの子は…本当に戻ってしまったんだな」
「お父さん…」
「それでもあの子が心配するのは私と六花子さんの事だ。自分だって不安だろうに、周りが大変だと思うと自分の事はうっちゃっちまう。…昔からそういう子だったと分かってはいるが、それが今は尚更痛々しい…」
「…」
「あの時、無理矢理にでもあの子を『あの事』と向き合わせていればよかったんだろうか…そうすれば、ここまで酷い事にはならなかったのかもしれない。…あの時に曖昧にしたつけを、今になって払わされている気分だ」
「そんな…!」
「でも、あの時の私達にはどうしてもそうできなかったんだ。…あの時『あの事』だけでなく、周辺の記憶まで失くしたあの子をその事と向き合わせるのは、余りに残酷な気がして…なあ将君、私達は間違っていたんだろうか…」
涙ぐみながら言葉を零す雅昭さんの方が痛々しくて、俺は先刻雅昭さんがそうしてくれた様に雅昭さんを抱き締めると、ゆっくりと声を掛ける。
「…お父さんは間違っていません。あの時はこうなるなんて誰も思わないでしょう?」
「ああ…そうだね」
「だからお父さんは間違っていませんし、誰も責められませんよ。責められるべきは…『あの事』を起こした上に、今更になって蒸し返した人間です」
「…将君?」
俺の様子に何かを感じたのか、雅昭さんは俺に声を掛ける。俺はそれに気が付くと、取り成す様に笑みを見せて、更に言葉を重ねる。
「…つまり、誰も間違っていないし、責められる人間はいないって事です。だからお父さんが自分に言ったのと同じ様に、お父さんもお父さん自身を責めないで下さい」
「…ありがとう」
「そうだ。葉月さんの事ですが、文乃さんだけじゃなくて自分にも任せてくれますよね」
「いいのかい?君の事を覚えていないあの子を見るのは辛いだろうに」
「いえ、それでも…彼女に何かしてあげたいんです。だから自分にも任せて下さい。お願いします」
「そうか…そう言ってもらえるなんて、あの子は本当に幸せ者だな…なら君にも頼もう。あの子を頼むよ」
「…はい。じゃあ自分は彼女の所へ戻ります。お父さん、気を付けて帰って下さいね」
俺達は別れると、俺は彼女の病室に戻る。病室に入るやいなや彼女が俺に声を掛けて来た。
「土井垣さん、お父さんと何話してたの?」
「ん?ああ…ここにいる間は俺と文乃さんで君を見ているから心配しないで下さいって挨拶したんだ」
「そうなの?…あ、そうだ。全然話が違っちゃうけど、お姉ちゃんから聞いて昨日テレビ見ましたよ。土井垣さんて、すごい人だったんですね。タイムリーヒットも打ってたし、すごくかっこよかったです」
「え?ああ…そうか」
「はい。試合も勝ってたし良かったですね。もっと見たいですけどパ・リーグってあんまりテレビでやんないって聞いてがっかりです。ラジオなら結構放送してるからってお姉ちゃんが携帯ラジオ買って来てくれましたけど、あの試合見たらもっと一杯見たいって思いましたもん」
「…そうか。それは嬉しいな」
彼女は満面の笑顔だが、その笑顔はいつも周囲に見せている笑顔で、同じ時に俺だけに見せてくれていた俺への想いも込められた柔らかな微笑みではない事に俺はまた胸が痛くなる。しかし俺に対する感嘆の言葉は嘘ではないと分かるし、昨日の不安げな表情に比べたら数倍ましだと思い直し、素直に喜びの言葉を返す。と、その言葉を聞いた彼女が哀しげな表情に変わり、ぽつりと呟いた。
「でも…そんな事本当は分かってなきゃいけないんですよね」
「葉月?」
「お姉ちゃんから聞いたって言いましたよね。…大体の事は話してもらいました」
「…そうか」
「本当はあたしはもう大人になってて、土井垣さんとあたしは仕事の人関係で知り合って、今は家族ぐるみで仲がいいって聞きました。あたし達…そんなに仲が良かったんですね」
どうやら文乃さんは彼女が思っている以上に年月が過ぎている事と、俺達が本当に仲が良かった事は教えたが、俺達が婚約者に等しい恋人同士だったとまでは教えなかったらしい。確かに年月が過ぎている事は理解ができたとしても、心は14歳のままの彼女にその過ぎた年月の間に恋人ができたと言っても戸惑うだけだろうから、そう話した方が正解かもしれない。彼女は苦しげに続ける。
「…でも、あたしには全然実感がないの。頭では何とか理解できるんだよ。でも気持ちが全然付いていかなくて苦しいの。今も土井垣さんが来てくれて本当に嬉しいのに、苦しいの。だって、土井垣さんの事は何でだかすごく大切な事だって思うのに、分かんなくなってるんだもん。…ごめんなさい、土井垣さん。土井垣さんの事分かんなくなっちゃって…」
俺の事を大事な事だと思ってくれる彼女が愛しくて、しかし今にも泣きそうな表情になっている彼女が同時に痛々しくて、俺は彼女を抱き締めたくなる。しかしそうして彼女を混乱させてはいけないと思い直すと、一息ついた後に精一杯の笑顔を見せて彼女の頭を叩き、口を開く。
「いいさ。言ったろう?君はすごく疲れて忘れっぽくなっているだけだ。だからゆっくり休めばすぐに思い出せるさ。今は俺の事をそう思ってくれるだけで充分だ」
「うん…でも」
「でも?」
「忘れちゃった事を思い出す努力はするよ、あたし。だって、忘れちゃったからってそこから逃げてちゃいけないと思うし、忘れちゃった中に意味があると思うから」
「葉月…」
心は14歳のはずなのに、何事にも立ち向かうという彼女の姿勢は変わっていない。彼女はこんな幼い時からこうして闘ってきていたのか―俺は彼女の決意に驚くと同時に、そうして闘いきれなくなった理由だろう『あの事』を含めた全てを思い出したその時の彼女の苦しみを思うと、その決意も痛々しいものに思えて労わってやりたくなり、その心のままに彼女に言葉を掛ける。
「そうか…でも無理はするな。思い出しても、思い出さなくても君は君なんだから」
「うん。でも思い出す、あたし…ううん、思い出したいの。土井垣さんの事だけでも」
「…ありがとう」
彼女の言葉に、俺はそれしか言葉を返せなかった――