そうして俺はほぼ毎日彼女の病室に足を運びながら、試合をこなしていった。彼女は検査の結果やはり健忘を起こしていて、その原因は身体にも脳にも問題はないためやはり精神的なものが原因だろうと診断された。とはいえ日常生活には支障がないので、当座は最近の騒動で疲労が蓄積して体力が落ちていたので、体力を戻すために入院して静養しながら並行して心理療法を主とした治療を行い、体力が戻った後に記憶が戻らない様なら通院という形を取って治療を続ける事に決まった。そして彼女は医師に止められたが、それを振り切って新聞を読み始めた。俺には「土井垣さんの試合がいつテレビとかラジオでやるかチェックするの」と笑っていたが、本当のところは現在の状況を知り、記憶の糸口を探し出そうと努力している事はすぐに分かった。そうした彼女を見ていると、記憶を失う前の自分の仕事に誇りを持ち、誠心誠意尽くしていた彼女の姿を見ている様な気がして、その時と同じ様に俺はその姿に力を与えられ、試合で着実に勝ち星をあげていった。そうして十日程したオフの日、俺はいつもの様に彼女の病室へ足を運び、その日の治療が終った彼女に付き合って彼女から治療で面白かった事や文乃さんから差し入れられて読んだ本の話を聞いたり、彼女が聞きたいと言うので俺の試合の話や野球についての話をしながら時を過ごしていた。彼女は目を輝かせて楽しそうに俺に色々尋ねながら話を聞いていたが、やがてふと遠慮がちに口を開く。
「…そういえば土井垣さん」
「何だい?」
「あたしは楽しいんですけど…いいんですか?折角のオフなのに、あたしに一日中付き合ってるなんて」
「いいさ、オフと言ってもトレーニング以外は特別する事も無いし。だったら君に付き合うのもいい暇つぶしだ」
「でも、土井垣さん位かっこよくていい人だったら絶対彼女とかいるでしょう?あたしにばっかり気を遣ってその彼女さんをおっぽっちゃってたら、彼女さん、可哀想ですよ」
「…」
今の彼女には俺と付き合ってきた記憶はないのだから、素直に俺に恋人がいたのなら悪いと思ったのだろう。その口調からも俺に対する精一杯の気遣いが感じられた。しかし彼女から発せられたその言葉は俺には聞いていられないものであり、無意識に俺は彼女に口走っていた。
「…お前だよ」
「はい?」
「本当はお前が俺の恋人なんだ。…お前は忘れてしまったがな」
「…」
彼女は驚いた表情を見せた後、その表情を悲しげに変え、搾り出す様な口調で言葉を紡いだ。
「そうだったんだ…お姉ちゃんは家族ぐるみで仲がいいって言ってたけど、本当はそうだったんですね…だからあたしは土井垣さんの事が大切だって思ったし、考えると苦しくなったんだ。…何でそんな大切な事忘れちゃったの?あたし。…ごめんなさい、土井垣さん…」
彼女の今にも泣きそうな表情と言葉で俺はふと我に帰ると、今言った事が事実であっても今の彼女を傷付けかねない言葉だと気付き、胸の苦しさはあるものの口調をからかう様なものに変え、取り成す様に言葉を返した。
「…すまん、いらん心配をした君の事をからかいたくなってな。…今のは冗談だ」
「え、そうなんですか?」
彼女は俺の言葉に泣きそうな表情から一転して目を丸くする。俺は軽い口調で更に続けた。
「ああ。冗談は抜きにして正直に白状すると、あいにく俺には恋人はいない。強いて言うなら野球が恋人でな。どうも色恋には縁遠いらしい」
「そうなんですか?ひど~い土井垣さん、からかうなんて。本気で悩んじゃったじゃないですか」
「だからすまんと言っているだろう。…それより、お父さんからも言われたろう?君は周りの心配じゃなくて自分の心配を第一にしろ。食事も満足に食わないから、体力が回復するどころか貧血をよく起こしていると聞いたぞ。それに、頭痛と吐き気も時々まだ出るんだろう?」
「…」
俺の言葉に彼女は沈黙する。沈黙する彼女に、俺は更に言い聞かせる様に言葉を続けた。
「俺は明日から遠征でしばらくここに来ないからな。俺が帰って来るまでには、記憶はともかく退院の目処が立つ位には身体を戻す様に。俺との約束だ」
「…うん」
「分かればいい。…とにかく食べて休んで、身体だけでも早く元気になってくれよ。記憶なんてあってもなくても、それなりに生きていけるさ」
「そうかな…」
「そうさ」
そうだ。日常生活には支障がないのだから、このまま記憶が戻らなくたって生きていける。古い記憶がない分は新しい記憶を重ねていけばいい事だし、彼女の今までの人生を考えれば、辛い記憶は失ったまま、楽しい記憶だけ持って生きて行っても許されるはずだ。だったらそれでもかまわないじゃないか。たとえ俺との記憶が戻らなかったとしても、また新しい記憶を作っていけばいい―微笑みかける俺につられたのか彼女もにっこりと笑ったが、ふとまた寂しげな表情になり呟く。
「…でも、本当にそうだったら良かったのにな…」
「何がだ」
「あ…えっと…本当にあたしが土井垣さんの彼女だったら嬉しかったのになって、ちょっとだけ思っちゃいました。すいません土井垣さん、元のあたしでもあたしみたいなのが彼女じゃ土井垣さんが迷惑ですよね」
「…」
申し訳なさそうな複雑な微笑みを見せながら言葉を零した彼女に、心が14歳だと分かっていても、俺は彼女に対する愛しさが込み上げて来る。もう『仲のいいお兄さん』役は限界だ。気が付くと俺はその衝動のままに彼女を引き寄せ、囁きかけていた。
「…そうだな、それがいいな」
「え?あの、土井垣さん…どうしたんですか?」
「君が俺の恋人になってくれるのなら、俺はすごく嬉しいぞ」
「何冗談言ってるんですか。離して下さいよ、土井垣さん」
「いいや、離さん。…俺は本気だ」
余りに急な展開に抗う彼女を、俺は更に強く抱き締める。彼女はそれでも抗う様な言葉を紡ぐ。
「でも、こんなあたしじゃ…」
「いいんだ、君の心が戻っても、戻らなくても俺は君が好きだ…嫌か?」
彼女は俺の言葉に抗う事を止め、しばらく抱き締められるままになっていたが、やがてぽつり、ぽつりとまた言葉を零していく。
「ううん、本当は嬉しいよ。…でも、これじゃいけない気もしてるの…だって」
「だって?」
「あたしは、土井垣さんの事思い出した元のあたしで土井垣さんを好きになりたいの…それだけ今のあたしにとっても土井垣さんは大好きで、大切なの。…あたしの言いたい事、分かる?」
「ああ、分かるさ…でも、俺の気持ちは今言った通りだ」
「うん…」
「確かに元に戻ってくれれば最高だが、君がどうなっても俺は君が好きだし、守る…絶対に」
「…」
彼女は沈黙する。沈黙する彼女に、俺は彼女が忘れる前の様に、恋人としての甘やかな口調でまた囁きかける。
「とりあえず、俺達は両想いだと思っていいのかな」
「…うん」
「ならこれから君は俺の恋人だ…分かったな」
俺の言葉に、彼女は真っ赤になって頷いた。それを確認して俺は一旦身体を離すと、顔を近づけて彼女にキスをする。更に真っ赤になった彼女に俺は微笑みかけるともう一度彼女を抱き締めた。自分でも強引だし卑怯だとも思うが、彼女が嫌がらないのであれば恋人としていてくれた方が安心できるし、そうでなくても俺との記憶のない彼女が俺を大切に思い、好いてくれたという事実は、彼女が俺との記憶を失った痛みを癒してくれた。俺が彼女の事を愛しいと思う気持ちは変わっていないし、彼女が同じ様に俺の事を想ってくれるのならそれでいい。辛い記憶は無くしたままにしておこう。俺達はここからまた始めればいいんだ。その時の俺はそう思っていた――