彼女の心が戻らない心配はまだあったが、それ以上に想いを確かめ合った事の嬉しさを噛み締めながら俺は遠征に旅立った。しかも想いを確かめ合って帰る時、彼女は無意識であろうが以前の様な俺に対してだけ見せる微笑みで「行ってらっしゃい」と俺を送り出したのだ。自分でも単純だと思うが無意識であれ見せてくれたその微笑みは俺にとって宝物の様に感じられ、自然と試合にも力が入る。そうして勝ち星先行で遠征を終らせ帰るその日に、文乃さんから連絡が入った。俺が何を聞いても「とにかく来れるならすぐ病院に来てくれ」の一点張りでそれ以上は何も言わない。何があったのかと帰ってすぐに彼女の病室へ足を運ぶと、病室の前に文乃さんが立っていた。
「ありがとう、すぐ来てくれたわね」
「あの電話だと心配にもなりますよ。何かあったんですか」
「あの子…あんたが遠征に出てすぐ熱を出して、ずっと寝込んでたの。今日は下がったみたいだけど…で、来てもらったのはあんたにこれからどうするか決めてもらいたかったからよ…とりあえず将君、今のあの子と会ってもショックを受けないでね」
「どういう事ですか」
「とにかく、会えば分かるわ」
「…?」
俺は訳が分からないながらも病室に入る。彼女は俺が入って来たのに気が付くと、俺に対して背を向けてしまった。彼女の態度の不可解さに俺は彼女に声を掛ける。
「熱が出たんだって?大丈夫なのか」
「…将兄さん、来ないで」
「葉月…思い出したのか?」
久し振りに呼ばれるその呼び方に、俺は彼女の顔を見ようと向き直らせるために彼女の肩に触れる。と、彼女が強い口調でそれを制した。
「触らないで!…将兄さんの言う通り思い出したわ…全部」
「葉月、どうしたんだ?」
「全部思い出したって言ったでしょ…全部を思い出した事で全部が決まったの…そう、全部おしまいにしなきゃ」
「どういう事だ、どうしてそうなる」
「…だって、あの騒動で分かったでしょ。あたしがどんな女かって…あたしは将兄さんと付き合うどころか、優しくしてもらえる様な人間ですらないのよ…ううん、もっと駄目。あたしに関わってたら、将兄さんが汚れちゃう」
「そんな事…」
「そうなの!…将兄さんがあたしがどんなでも好きで守るって言ってくれて、夢みたいに嬉しかったけど…あたしはそれに値する人間じゃないの…だから夢はおしまい。なかった事にしなきゃ」
「葉月、顔を見せろ。話すなら俺の顔を見て話せ」
彼女の気丈に見えながらも脆さを感じさせるその言葉に、俺は彼女の本心を知ろうともう一度向き直らせるために肩に触れる。しかし彼女はそれをまた強い口調で制すると、頭から布団を被ってしまった。
「触らないでって言ってるでしょ!」
「葉月…」
「あたしに触ったら将兄さんが汚れちゃう。…本当は二度と会わないのがいいんだけど…皆に合わせたお付き合いは続けないと不自然よね。でも恋人としてはもうおしまい。なかった事にしましょ。それで『仲間』に戻るの。それが一番いい事よ」
「そんな…」
「もう帰って!…お願いだから…そうじゃないとあたし、決心が鈍っちゃう…それで、もう二度と個人的には会わない様にしなきゃ。…さよなら、『土井垣さん』」
「…」
彼女の言葉と態度に、彼女の傷がどれだけ深いものなのか俺はやっと理解した。彼女の傷は、忘れたままでいいなどと悠長な事を言っていられる様なものじゃなかったんだ。幸せになろうと心の底に押し込んでも、幸せになる事を阻むかの様にその度にそれは彼女に襲い掛かる。そして押し込めた分だけ反動が返り、更に彼女を傷付ける。それに俺は手を差し伸べる事はできない。いや、差し伸べても彼女はそれを振り払ってしまう――無言で病室を出てきた俺を待っていたかの様に、文乃さんは病棟のエントランスへ案内するとそこへあった長椅子へ座らせ、自分も座るとおもむろに口を開く。
「…分かったでしょ。あたしが何でああ言ったか」
「…ええ」
「思い出した時らしいけど…夜中にあの子、急に泣き叫んだらしいわ。思い出した事によっぽど耐えられなかったのね。そのまま熱を出して昨日までずっと寝込んでたの。…で、熱を出した時からあの通りよ」
「…そうですか」
「とりあえずここは病院だから今度は死のうとする様な馬鹿な真似はできないだろうけど、落ち着くまで…いいえ、落ち着いてもあの子はあんたを遠ざけようとするかもしれない。だからあんたこれからどうしたい?あんなあの子でも見守るも、いっその事見限るも、あんたの自由よ」
「そんな、見限るなんて…!」
「でもあの子があんたを拒否してる限り、あんたがあの子にできる事、何かある?見守り続けてそれでも拒んで、あんたに憎まれる様になったらあんたもあの子も可哀想だもの。それだったらあんたには新しい道を選んでもらった方が、あたしとしてはあの子のためであり、何よりあんたのためだと思うの」
「文乃さん…」
「答えは今出さなくてもいいわ。…でもね、そういう道を選んでくれてもいいのよ」
文乃さんの心から俺を気遣う言葉と葉月の先刻の態度とが相まって、俺は今ここにいるのが辛くなってきた。俺はそれをそのまま言葉に乗せる。
「とりあえず、今日は帰っていいですか…しばらく頭を冷やしたいんです」
「そう…でもありがとう、今日は来てくれて」
「いえ…」
俺は文乃さんに頭を下げると、逃げ出す様に病院を後にした――