それから数日、俺は思考の全てを野球に傾けていた。彼女が記憶を失った時と違い容易に彼女の事は頭から消え、試合の采配とプレーが頭の全てを占める。自分でもこんなに薄情な人間だったのかと驚いたが、それでも自分を拒んだ彼女の事を考えようとは思えなかった。そうして試合をこなしていき、その日の試合も終わり帰ろうとした矢先、珍しい事に俺を待っていたのだろうか、里中が物陰から出てきて俺に声を掛けた。
「土井垣さん」
「ああ、里中か。珍しいな、山田と一緒に帰ったんじゃないのか」
「いえ、ちょっと土井垣さんに個人的な話があったんで…」
「何だ、個人的な話とは」
 里中はしばらく言葉を捜す様に沈黙していたが、やがて頷くとゆっくりと口を開く。
「こんな事聞くのは野暮だって分かってますけど…土井垣さん、葉月ちゃんと何かあったんですか」
「…」
「…あったんですね」
「どうしてそう思う」
「チームの皆、こっそり話してますよ。『最近の土井垣さんは迫力が違う、采配やプレーが冴えてるのはいいけど、漂ってる雰囲気が何だか怖い位だ』って。確かにそう見ると今日の土井垣さん、鈍い俺でも分かる位にピリピリしてましたし」
「…そうか」
「原因は、最近の騒動でとんでもない女に騙されて、機嫌が悪いせいだって事になってますよ。俺は葉月ちゃんの事良く知ってますから、あの騒動のほとんどはでたらめだって分かってますけどね…でも皆の推理は当たらずとも遠からずとも思いました。機嫌が悪いんじゃなくて、葉月ちゃんと何かあったから、忘れようとして余計に変な力が入ってるんじゃないんですか」
 里中の問い詰めに俺は気圧されたが、それでも平静を保った軽い口調で言葉を返す。
「そう思われたか…しかし俺はいつも通りだぞ。確かにあの騒動で彼女は入院してはいるが、少し疲れが溜まっただけで、お前も知っての通りの、昔よくあった静養がてらの検査入院というだけだ。状態としてはいつもの事で、別に何かあった訳じゃない」
「そうですか。…じゃあ俺にも入院先を教えてくれませんか。葉月ちゃんは折角最近縁が繋がり直した幼馴染で、同時に大切な恩人のお嬢さんでもありますしね。あの騒動は俺もちょっと心配だったから、それで入院したって言うなら俺も見舞いに行きたいんですけど」
「…」
 里中の言葉に饒舌に話していた俺は一瞬迷って言葉を失う。俺は彼女に拒まれている身だ。だとしたら記憶が戻った今の彼女なら、拒まれた俺よりも縁が繋がり直したばかりとはいえ、昔からの馴染みであるこいつが彼女の傍にいた方が、彼女のためなのかもしれない―言葉を失っている俺に里中は悪戯っぽく笑うと、更に言葉を紡ぐ。
「…教えてくれなくていいです。どっちにしろ俺は見舞いには行けませんよ、土井垣さん」
「何故だ」
 俺の問いに里中は悪戯っぽい口調のまま答える。
「昔ならともかく、いくら幼馴染って言っても縁が繋がり直したばかりの今の俺じゃ、彼女は気を遣って余計に疲れるだけです。今他人で見舞いに行って、彼女が気楽になれるのは土井垣さん位ですよ、多分」
「…」
 沈黙する俺に、里中はまた言葉を捜す様に同じく沈黙した後、またゆっくりと、しかし真剣な口調で決定的な言葉を出した。
「だから、恩人のお嬢さんの…いいえ、何より懐かしくて大切な友人の葉月ちゃんを頼みます。彼女が大変な状況にいるのなら、彼女を支えてやって下さい。今彼女を支えて守れるのは俺でも誰でもない、土井垣さんです…少なくとも俺はそう思ってます。彼女が強く見せててすごく脆い所があるのを、土井垣さんなら良く分かってるでしょう?」
「…ああ」
「話はそれだけです。葉月ちゃんには俺も心配していたって伝えて下さいね。で、元気になったらでいいんで会わせて下さい。じゃあ俺は山田が待ってるんで…失礼します」
 そう言うと里中は踵を返して去って行った。俺は里中を見送って立ち尽くしながら、彼女を俺に託した里中の彼女に対する友情と、彼女の俺に対する想いへの理解を感じ、彼女の笑顔と最後に取った態度が一気に心に溢れ出して来た。そうだ、俺の心は決まっている。里中の言う通り彼女を守ってやりたい。しかし彼女に拒まれている以上、俺に何ができるって言うんだ――俺は無意識に唇を噛み締め、拳を壁に叩き付けていた。叩き付けた拳の衝撃でふと我に返った時に、俺に一つの思いが浮かび上がる。俺との付き合いで過去の傷と闘う事に疲れた彼女は、俺との関わりを断つ事で、全てをまた闇の中へ戻そうとしているのかもしれない。しかしそれではまた同じ事を繰り返す。彼女が俺を拒むのならそれはもう仕方がない事だ。ならば彼女がこれからの人生を心からの笑顔で送って行ける様に、彼女が闇へ戻そうとしているものを彼女から断ち切ろう。彼女ができないのなら、俺がやる。たとえそれが彼女に俺ができる最後の事でもいい。彼女を縛り付けている心の傷という糸を断ち切ってやろう――

「何よ、急に『話がある』っていうから何事かと思ったら、藪から棒に『探偵に知り合いはいないか』なんて」
 職場である法律事務所の会議室兼面接室で煙草を吸いながら、文乃さんは俺に問いかける。全てを決めた時にそれを実行するのに一番頼りになるのは文乃さんだと思い、俺は全てを話して文乃さんに迷惑が掛からない最低限の協力を仰ごうと思ったのだ。俺はその心のままに全てを話す。
「俺、決めました。葉月が俺を拒むのはやっぱり『あの事』が原因だと思います。そうじゃなくても『あの事』に囚われている限り、彼女はずっと苦しまなければいけません。だったら彼女が笑顔でいられる様に、彼女から『あの事』を断ち切ってやりたいんです。断ち切って、それでも俺を拒むのなら…その時はもう彼女の事は諦めます」
「…」
「彼女が断ち切れないなら俺が彼女から断ち切ります。そのためには、『あいつ』を探し出して俺自身が『あいつ』と決着をつけなければと思ったんです。俺…間違ってますか」
「…」
「本当は普通の業者でもいいかと思ったんですけど、文乃さんなら仕事柄人脈も広いし、もっといいつてを持っているかもしれないと思ったんです…文乃さん、誰か知りませんか」
 文乃さんは黙って紫煙をくゆらせながら俺の話を聞いていたが、やがて大きく紫煙を吐き出すと、ゆっくりと口を開いた。
「そう…あんたはそう決めたのね」
「はい」
 俺の言葉に文乃さんはもう一度ゆっくりと紫煙を吐き出すと、柔らかな笑みを見せる。
「ありがとう。あんな態度を取ったあの子をそれでも想ってくれて…いいわ、紹介してあげる。あたしが知ってる中でも一番腕が立って信用できる奴よ。でも…条件があるわ」
「条件?」
「一つは、『あいつ』が見付かったとしても、単独で早まった行動は起こさない事。もう一つは…その話にあたしも乗せなさい」
「文乃さん、でも…」
「いいから、あたしの話も聞きなさい」
 文乃さんは俺の言葉を制して煙草を消すと、静かな、しかし真剣な口調で言葉を紡ぎ出した。
「今回の事であたしも『あの事』にケリをつけなくちゃって思ってたのよ、丁度。あたしも負い目になってるのよ、あの時に何もできなかった事がね。それに今回の事で良く分かったの。あんたが言う通り、『あの事』に囚われている限り、あの子は苦しいままだわ。それにあたしはもう一つ思ったの。周りがあの子の事を気にして曖昧にしたままだから、あの子も囚われちゃうんだってね…だからあんたと同じ様に、あたしがまずはっきりケリをつけないとって思ったの」
「文乃さん…」
「だからあんたに協力するわ。あの子のためにも…あたしのためにもね」
「…」
 そう言って文乃さんはふっと笑った。笑っていながらも決意のこもった文乃さんの言葉に、俺は少し考えた後、全面的な協力を仰ぐ事にした。
「分かりました。お願いします、文乃さん」
「ありがと。じゃああたしも乗るから…って事で今からすぐに呼び出しますか」
「え?」
 余りに素早い対応を見せる文乃さんに俺が驚いた表情を見せると、文乃さんはにやりと笑う。
「実はね、もうあんたとは別口で頼んであるの。『あいつ』の行方と、『あの事』以降何をやっているか調べてくれって。そろそろ調査状況を聞こうと思ってたところだから、依頼人追加の顔合わせも含めて呼び出すわ」
「文乃さん」
「あの子の事を想ってる分、考える事は同じって事ね」
 文乃さんはそう言ってウインクをすると、電話で誰かに連絡を取る。しばらく話した後電話を切ると、俺に「OK、すぐ来るって」と言葉を掛け、また俺の正面に座って新しい煙草に火をつける。そうして30分程経っただろうか、部屋に文乃さんと同年代位の長身の男が入って来た。ジーンズにラフなシャツとジャケットという姿だが、どこか育ちの良さすら感じさせるその男は、部屋に入りながらおもむろに文乃さんに話しかける。
「よぉ文、丁度良かった。俺もここに来ようと思ってた所だ」
「そう。でも悪いわね柊、あんたまで巻き込んじゃって」
「いいんだ。俺とお前は四半世紀以上の悪友だろ?葉月は俺の大事な妹も同じだしな。それに、『あの事』に関しちゃ俺も多少の因縁があるだろうが。逆に他の奴にこれを任せたら許さねぇ所だぜ?」
「そうだったわね…ありがと。そうだ柊、さっき電話で言った追加の依頼人よ」
 文乃さんが『柊』と呼んだ男に俺を示すと、男は俺の顔をじっと見詰めてにっと笑い口を開く。
「…へぇ、確かにスターズの土井垣だ。葉月のために『あいつ』と対決しようなんざ、前調べた通りけっこう骨のある奴らしいな…葉月もあんな事があったとはいえ、ちゃんといい男を見付けたって訳だ」
「え?『前調べた』って…」
「ほら、あんたと初めて会った時に言ったでしょう?『あんたの事は全部調べた』って。その時にあんたを調べさせたのがこいつ」
「ああ、そういえば…」
「あの騒動を見てた限りじゃ俺の調べたこたぁ間違ってたのかと思ったが、間違っちゃいなかったみてぇだな。俺の腕も落ちちゃいねぇ様だ」
 言っている内容や口調はかなり失礼に見えて、全く不快感がない。これが彼流の葉月や俺に対する気遣いであり、また彼の人柄を表している様に見えて、俺はふと顔が和らぐ。それを見た男はばつの悪そうな表情で頭を掻くと、不意に右手を差し出して更に口を開いた。
「俺は御館柊司だ、よろしくな。大体の事は文から聞いてる。お前も文とおんなじ気持ちだって言うなら手を貸すぜ…ただし、プライベートでな」
「え?」
「さっき文に言った通り、俺も『あの事』に関しちゃ多少因縁があるんだよ。ケリをつけるなら一蓮托生…って訳だ。だから早まった真似はしねぇでくれよ」
「…はい。よろしくお願いします、御館さん」
 俺も立ち上がって握手したのを見て文乃さんは満足げに頷くと、ふと真剣な表情になり問いかける。
「…で、どう?調査状況は」
 文乃さんの言葉に御館さんも真剣な表情になると、俺の隣に座って報告書らしき書面を広げて報告をしていく。
「ああ、この通り調べはついたぜ。…あの時も思ったが、かなり酷ぇ奴だなこいつ」
 俺達は報告書を読み進めていく。そこには『あいつ』の経歴と現在の居所が書いてあった。読み進めるうちに俺は怒りと嫌悪感がない交ぜになった感情が湧き上がってくる。文乃さんも同じ心境なのか、かなり硬い表情だ。
「こんな奴のために…彼女はずっと苦しまなければいけなかったのか…?」
「あの子の今までの人生の半分以上をボロボロにしておいて…それでも気付いてないって事よね。この経歴だと」
「だろうな。逆に全部周りのせいにしてるんじゃねぇか?『あの事』をああいうタレコミ方をしただけでもそうだが、そうじゃなくても保身と自己弁護の塊みたいな奴らしいしな。調べた範囲でも」
「畜生!」
「見てもらった通り、今は都内の個人経営の塾で講師をしてる。住んでる場所も調べた。…で、どっちにしろ乗り込むんだろ?家でも塾でも好きな方を選びな。…だがな、汚れ役は全部俺に任せろ。お前らは口は出してもいいが手は出すな」
「ちょっと、柊!」
「御館さん!」
 声を上げる俺達に、御館さんは言い聞かせる様に畳み掛ける。
「文も土井垣もあいつと直接対決を考えた位だ。あいつに一矢でも報いたいと思ってるだろうがな…これは俺が調べただけの話で、今あいつの周りにいる人間はこの事を知らねぇだろう。だとしたら悔しいが、相手は一見は善良な一般市民だ。お前らが手を出したら、傷がつくのはお前らの方だぞ。お前らに傷がついて一番悲しむ人間は誰だ?良く考えろ」
「…」
「その点俺なら多少傷がついても大丈夫だ。それに、あんまり使いたくはねぇが名誉挽回できるだけのカードは、お前らより俺の方が持ってるつもりだ。だから汚れ役は俺が引き受ける」
「ごめん…柊」
「いいんだ。ケリをつけるなら一蓮托生だって言ったろ?…それにケリをつけるための役割はそれぞれあるはずだ。まずはそれから考えようぜ」
「御館さん…」
 言葉を失っている俺達に、御館さんはまたにっと笑うと言葉を続ける。
「さあ、計画を練ろうぜ…綿密にな。きっちりケリをつけるためにも」
「…そうね」
「…はい」
 その後俺達は長い間話し合った。それぞれに決着をつけるために――