「ん…」
あたしは目を覚ますと、自分の身体に心地よい重みがある事に気づいてふと横を見る。そこでは柊があたしを腕に抱きながら、まだ静かに眠っていた。その腕の重みも、体温も、石鹸と汗が混じった身体の香りも、とても安心できるものだった。そんな安心を感じる自分に戸惑い、将さんに対する罪悪感を覚えながら、あたしは昨日あった事を思い出す。
『そうか…あたし、将さんがいなくて一人でいるのが寂しくなっちゃって、柊に傍にいてって我儘言っちゃったんだ…あたし、柊の気持ちも考えずに無神経だな…なのに、柊はホントに優しくて…こんな風にあたしをあっためてくれて…ごめんね、柊…柊を利用ばっかりして…』
あたしは罪悪感で胸が痛むのを感じながら、今まで見ていた夢を反芻した。
『そうだよ…柊はちっちゃい頃からあたしをずっと守ってくれて、悪い事は叱ってくれて、でも普段は優しくしてくれて、何より…ずっと『お嫁さんにする』って本気で言ってくれてた…何であたし、そんな大切な事忘れちゃったんだろう…それに…何で今になって思い出したんだろう…将さんと婚約して、祝福されて、幸せの中で後戻りできなくなってる今更になって…』
そこであたしはふとある思いに辿り着き、愕然とする自分を感じていた。
『あたし…迷ってる?…あんなに将さんを愛してるって思ってたのに…今になって…将さんが野球の事だけしか考えなくて、今までそれも受け入れてたのが急に寂しくなって…そんな時に、柊の想いを知って…柊の優しさに触れて…柊に傾いたの!?どうしてこうなっちゃったの…?あたしの想いはどこにあるの…!?』
あたしは愕然としながらも、自分の余りの軽薄さに涙が零れてくる。何て自分は軽薄な女なんだろう。寂しいからとほかの男の人にすがって、その自分に想いを寄せてくれる男の人を利用して、自分の満たされない想いや寂しさを埋めるなんて最低だ。こんな自分は、将さんにはもちろん、柊にもふさわしくない――そんな事を思いながら柊を見つめて涙を零していると、柊もゆっくりと目を覚まし、あたしの様子に気づくとがばっと起き上がって、慌てて声を掛ける。
「…ああ、葉月、おはよう…っておい!どうしたんだよ、泣いちまってるなんて。まさか俺、気がつかないうちに何かお前にしちまったのか!?」
「ううん…違うの…ごめん…柊…あたし…本当にごめん…」
あたしはただ泣き続けた。寂しさに耐えられずに柊の想いを利用している自分が憎らしくて、そしてそんなあたしの思いを多分…ううん、絶対に分かった上で優しくしてくれる柊に申し訳なくて――柊はしばらくあたしを見つめていたけど、そのうちにふわりとあたしを抱き締める。これ以上柊の優しさに甘えてしまったら、将さんを裏切るだけでなく、柊も傷つけてしまうと思ってあたしは柊の腕の中で身体を離そうともがいた。けれど柊はあたしを離すどころか、更にあたしを抱き締める腕に力を込めていき、耳元にそっと囁いた。
「泣くなよ…いや、泣いてもいい…でも、謝るな。お前は何にも悪い事はしてねぇんだから」
「ううん…してるよ…あたしは柊の想いと…優しさに甘えて…利用して…」
「…」
柊はしばらく黙り込むと、ふっと抱き締めた腕から力を抜いて、あたしの肩に両手を掛けると、あたしの目を見つめながら、静かに呟いた。
「いいんだ…好きなだけ俺を利用しても。いや…お前が俺に甘えるのは当然の権利になったぜ。俺は土井垣に『宣戦布告』したからな」
「柊…どういう事?」
柊の言葉の意味が分からなくてあたしが問い返すと、柊は静かに続けた。
「葉月、俺のお前に対する想いは…さすがにもう分かってるよな」
「…うん。かなり前から分かってた。違うって思おうとしたけど…そうできないくらい…分かってた」
「そうか。なら話は早いな。俺は今までお前の幸せを願って、俺の想いを隠しながらお前達を見守ってきたが、これまで土井垣が重ねてきたお前に対する仕打ちと、今回のキャッチャー復帰での連絡断ちで、もう堪忍袋の緒が切れた。こんな葉月をないがしろにして傷つける状態を続けるなら、俺は土井垣からお前を奪う。…それを土井垣にはっきり告げた。そういう事だ」
「柊…」
「でも、お前は何も気にしなくていい。今まで通り、俺とも、土井垣とも付き合ってけ。ただ俺はもうお前に対する想いを隠さないでお前に接する。変わるのはそれだけだ。もちろん、お前が嫌な事は何もしないがな。それで最終的にどっちを選ぶか…それだけがお前のする事だ」
「でも、それじゃ…将さんもそうだけど…柊が傷つくよ…あたしは柊を傷つけたくないよ…恋愛感情があるかは分からないけど…柊はあたしにとって…もしかすると将さん以上に…大切な人だから」
あたしの言葉に柊はふっと優しい微笑みを見せるとあたしの頭を撫でて口を開いた。
「いいんだ。俺にしたら、今までお前への想いを隠して土井垣との話を聞いてたのが一番傷ついてた事だったからな。それ以上に痛ぇ事なんてねぇよ。だから…俺の想いも知った上で、お前はお前らしく、何の気後れもなしに土井垣にも俺にも接してればいいんだ。とりあえずは…それが俺の一番嬉しい事だからな」
「柊…ごめん…」
「だから謝るなって…ちなみにこうなったからって、昨日決めたここにしばらくいるのをやめるっては言うなよ。お前に手を出すっていう訳じゃなくって、お前の今の状態はほっとけねぇし、お前に料理を教える事は、土井垣のためじゃなくって、お前のためにしてぇからな」
「でも…いいの?柊が…その、男として…辛くない…?」
あたしはいろんな事を考えて気恥ずかしくなって赤面しながら問いかける。あたしの問いに、柊はにやりと笑って答える。
「大丈夫さ。俺にしたら、葉月が傍にいるってだけで最高に幸せだしな。それに一緒にいる中でお前が俺に傾いて、そういう仲になるって言うならまったくもって問題ねぇだろ」
「柊!」
あたしは更に気恥ずかしくなって声を荒げる。それを見て柊は表情を優しい微笑みに変えると、そのままの口調であたしに言葉を掛ける。
「よし、いつものお前に戻ったな」
「柊…」
柊の優しさにあたしは胸が一杯になったけれど、これ以上泣いたらまた柊に心配をかけると思って、精一杯明るい笑顔を見せて口を開く。
「…ありがと」
「ああ。…でも、土井垣に『宣戦布告』をしたからにゃ、これだけはさせてもらう。勘弁な」
「…!」
柊はすっと顔を近づけるとあたしにキスをした。ほんの一瞬、そっと触れるだけのキスだったけれど、柊の想いは充分すぎるくらい伝わってきて、あたしは胸が高まり、顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしくて口元を押さえるあたしを見て、柊はにっと笑って口を開く。
「土井垣への宣戦布告のキスだ。これからは本気で土井垣とお前を奪い合いさせてもらうからな」
「…うん」
「さあ、朝飯作るぞ。飯食って元気出して、今日も一日お互いバリバリ働こうぜ」
「うん」
「じゃあ、俺は先に材料用意しとくから、お前その間にここで着替えちまえ」
「ありがと。そうさせてもらうね」
そう言うと柊は伸びをしながら寝室から出て行った――