そうして二人で朝食を作って食べて、柊はあたしに『とりあえず余分に作ってたスペアキー渡しとくからな。先に帰って来たら家に入ってろ』って言って、あたしにマンションのスペアキーを渡してくれた。その後それぞれの通勤路へ別れて、お互いの職場へ行って仕事をする。そうして昼休みに携帯のチェックをしたら、将さんからの留守電が入っていた。でも、久しぶりに聞く将さんの声は、いつものあたしを包み込んでくれる様な温かな声ではなく、冷たく低い声だった。
――葉月、話がある。これを聞いたら電話をよこせ――
将さんは練習があるから出ないかもしれないと思ったけれど、少しでも早く話したかったからあたしは電話をかけた。将さんがあたしの迷いを少しでも早く振り払ってくれるのを願って
――願いが通じたのか、電話は数コール後、将さんにつながった。将さんは低い声であたしに言葉を掛ける。
『…葉月か。割合早く掛けてきたな』
「うん。電話くれって留守電入れてくれたでしょ?キャンプ終わるまで連絡しないって言ってたのにあんな留守電だったから、何かあったのかって心配になっちゃって」
あたしは嘘でもないけれど、本当でもない言葉を紡いだ。だって、将さんが電話をよこせって言った理由をあたしは分かっているから
――あたしの言葉に、将さんは予想通りの言葉を紡いだ。
『お前、今御館さんのマンションにいるそうだな』
「うん。将さん、柊のお料理が一番口に合うって言ってるでしょ?だから、将さんが帰ってきてから精一杯いたわれるように、一番口に合うお料理を伝授してもらってるの」
あたしはほんの少し前まで真実だった、けれど今ではほんの少しの嘘が交じってしまった理由を将さんに話す。将さんはしばらく沈黙した後、強い口調で言葉を紡いだ。
『そういう事なら俺から言う…そんな事はしなくていい。一刻も早くやめて、御館さんから離れろ。これは頼みじゃない、命令だ』
「どうして?将さんをいたわってあげたいって気持ち、そんなに迷惑?」
あたしは将さんが嫉妬しているのを分かっていて、わざと無邪気に問いかける。将さんの嫉妬を心に刻んで、あたしの心の迷いを払いのけたくて
――その思いが分かってか分からないでか、将さんは更に強い口調で言葉を紡いでいく。
『お前、御館さんが何でそんなに親切なのか分からないのか!?御館さんはお前に手を出すつもりなんだぞ!俺にもはっきり言った。『葉月は俺がもらう』とな!お前の軽率な行動が御館さんを増長させるんだ!もう一度言う、御館さんから離れろ!』
『何があっても絶対に連絡しない』って言っていた将さんが連絡をくれただけでなく、独占欲を露わにして嫉妬してくれるのが嬉しくて、でも、あたしの事を信用してくれないのが哀しくて、何より自分の想いがどこにあるのか確かめたくなって
――あたしは将さんの『命令』に対する答えを口にした。
「…ううん、このままでいるわ」
『葉月!』
「将さん、あたしを信じてくれないの?あたしが愛してるのは将さんよ。もし、柊が何かしてきても、あたしは全てを掛けて抵抗するって思ってくれないの?」
『い、いや…そうは思わんが…それでもお前はか弱い女だ。抵抗しきれなかったら…』
「大丈夫。それに…柊は将さんが思ってる様な事はしない。柊との長い付き合いで、あたしはそう確信して言える」
『葉月!そんな事を言うなんて…お前まさか本当はもう御館さんと…!』
「…そんな事ないわ。でも…そう思うのならそう思えばいいわ…それで、別れるって言うなら…受け入れるわ。あたしの想いを信じてくれない将さんなんか…いらない」
「葉月…」
『じゃあね…昼休みもう終わりだから』
あたしはまだ何か言いたそうな将さんを残して携帯を切ると、そのまま電源を切ってため息をつく。あたしはこんなに冷たい人間だったのだろうか。将さんがあたしを信じてくれない寂しさと、愛する人を傷つけて平気でいる自分を思い、あたしは、胸の奥がしんしんと冷えていくのを感じていた
――
「ただいまっと…ああ、葉月、帰ってたのか。どうしたんだ?電気つけねぇで」
あたしは電話の後からずっとしんしんと冷えた心を抱えたまま、半分ぼんやりとしながら、でも仕事は確実にこなした後、着替えを取りに自分の部屋に一旦戻ってから、柊の部屋に戻って、そのまま電気もつけずにリビングに座り込んでいたのだ。帰ってきた柊はそれに気づいて電気をつけると、気遣わしげにあたしに問いかける。あたしは、答えるでもなく呟いた。
「ねえ…どうして…愛してる人なのに、傷つけちゃうのかな…」
「葉月、どうした。土井垣と何かあったのか?」
柊は更に気遣わしげに問いかける。あたしは言葉を零していく。
「あたし…将さんを愛してる。…だけど、柊も好きなの。将さんはそれに気づいて、柊との事で下世話にあたしを疑って離れろって言ったの…そんな将さんの言葉を聞いてたら、愛してるはずなのに…何だか、あたしの事を信じてくれない将さんが嫌になったの…それで…『柊との仲を疑って別れたいって言うなら受け入れる。あたしの想いを信じてくれない将さんなんかいらない』って言っちゃった。きっと将さん傷ついたよ…悪いのは全部あたしなのに…あたしが将さんの言う事を聞いて柊から離れればいいだけなのに…今のあたしは何でかはうまく言えないけどそうできないの…それで将さんを…ううん、柊だってあたしはもっと傷つけるのよ…あたし…自分が傷つくのはいくらでも傷ついていいけど、柊や将さんを傷つけたくない。…あたし…どうしたらいいの…?」
あたしは言葉と一緒にまた涙が零れてくる。しんしんと冷えた心が痛くて、でもどうしたらいいのか分からなくて
――そんなあたしを見ていた柊は、隣に座ってゆっくりと抱き締めると、静かに言葉を紡いだ。
「…このままでいいんだ」
「何で…?」
柊の言葉の意味が分からず問い返すあたしに、柊は静かだけれど、今まで将さんに感じていた感情をぶつけるかの様に言葉を同じ様に零していく。
「お前は…土井垣との付き合いで、今まで充分過ぎる位傷ついてきた。あいつのお前に甘え切った無神経な態度でな。そんな土井垣のせいでお前がどれだけ苦しくて哀しい想いをしてたか…俺はよく分かってる。だから、今度は土井垣がその思いを知る番なんだ。お前が今まで土井垣に感じてきたのと同じ様に不安や、苦しさや、哀しみをな。だからお前はこのままでいいんだ。それで思った事や感じた事を土井垣にもっとぶつけていいんだ。もちろん…俺にもな。そうして今のお前は心を根っから楽にして、休ませる事が必要なんだ」
「柊」
「土井垣が嫉妬してるのはそれでいいんだよ。お前が感じていた不安を同じ様に自覚して…それであいつが何を感じて、どういう行動をとったらお互いのためになるのか考える、あいつにはそれが必要なんだからな。…でもな、もしまたお前を傷つける様な行動を取るなら、俺はあいつを許さねぇし…全力でお前を守るから」
「でも…それは柊に悪いよ…」
「悪くねぇよ。言ったろ?俺はお前を土井垣と奪い合いするって。俺にとっちゃ葉月の幸せが一番の幸せだからな。そのためなら泥だって何だって被るぜ」
柊の優しい言葉が嬉しくて、でもそう思う自分がやっぱり軽薄に思えて、そう思わせる柊が同時に何だか憎らしくなって
――あたしは声を荒げた。
「…何で?何で柊はそこまで…自分を犠牲にしてまであたしに優しくできるの?こんな昔の約束を忘れた様な薄情な女なんかほっといて、もっと美人で、優しくって、頭もいい様な、あたしなんかより何倍もいい女の人と一緒になれば良かったじゃない!…ホントはあたし知ってた。お姉ちゃん含めて何人も柊の事本気で好きになったそんな素敵な女の人がいたって…どうしてそっちに行ってくれなかったの!?そうしたらあたしは何の迷いも出なくて、将さんの想いに包まれたまま幸せでいられたのに!絶対柊が未だに一人でいてあたしを想ってるせいで、柊への良く分からない想いが出てきて、自分の想いがどこにあるのか、あたし、何にも分からなくなっちゃったんだよ!」
自分でも支離滅裂だし、勝手な言葉だと思った。でも止められなかった。あたしはそのまま我儘な子どもみたいに泣きじゃくった。柊は泣きじゃくるあたしをただ静かに、力強く抱き締めていた。あたしはそれでもただ泣きじゃくり続ける。そのうち泣き疲れて泣き止んだあたしに、柊は囁きかけた。
「…思い出してくれたんだな」
「え?」
「今お前、言ったじゃねぇか。『昔の約束を忘れた様な薄情な女なんかほっといて、もっといい女と一緒になれば良かったじゃないか』って。思い出してくれたんだろ?…昔の約束」
柊の口調があんまり静かで、あったかくて、あたしはそのあったかさに不思議とまた素直になれて、また涙を零しながら答える。
「うん…柊はあたしに『あたしをお嫁さんにして、ずっと一緒にいたいって思ってるんだって覚えててくれ』って言って…あたしも言ったよね。『柊がずっと一緒にいたいって思ってくれるのが嬉しいから、絶対覚えてる』って…いくら子どもの口約束でも…あたし…約束破っちゃった。酷いよね…」
あたしの言葉に、柊は静かで温かい口調で、でも力強く言葉を返す。
「いいんだ。お前は辛い事が今までの人生であり過ぎただろうが。そんな人生送ってりゃ、そりゃ忘れちまうよ、幸せなガキの頃のちょっとした口約束なんざ。それだけじゃねぇ。辛かった事の中でも何より一番辛いって俺は思ってる『あの事』で…記憶だって失う位傷ついちまっただろうが。その傷のせいで、お前はただ男が怖くなったってだけじゃなく、恋愛や結婚に対して恐怖に近い不安を持っちまったって俺は気づいてたからな。だから俺は無理に約束を思い出させて、お前に苦しい思いをさせたくなかったんだ。だから、お前の傷が癒えるのを待って…立ち直ったらゆっくり俺の想いを伝えようって悠長に構えちまった。もっと早く…強引にでもお前を俺のもんにしてれば、この状況は変わったかもしれねぇ。でもそうしたら、お前はきっともっと傷ついたと思う。それが俺は嫌だった。そうして見守っているうちに土井垣が現れて、何も知らない分迷わずお前にぶつかって、お前はそれを受け入れてった…それだけさ。だから…いいんだ。全ては俺のタイミングの取り方と、状況判断の甘さが悪かったんだ」
「柊…」
あたしは柊に申し訳なくて、でも柊がそこまであたしの事を想ってくれていたのが本当に嬉しくて、言葉が零れ落ちた。
「柊…気付かなくって…ごめんね。でも…ありがとう。そうやって柊が傍で見守ってくれてたから、あたし、強くなれて、将さんと恋ができたんだね…そんな柊の大切さに気付かなくってごめん…でもそんな風にさりげなく優しくしてくれる柊が…好きだよ」
「葉月」
「しばらく…二人の間で揺れちゃうと思うから…柊にも、将さんにも酷い仕打ちをする事になると思う…それでも…いい?」
あたしの言葉に、柊はにっと笑って応える。
「ああ、精一杯迷え。そうして結論を出せ。その結論がどんな形でも…俺は受け入れるから」
「ありがとう…柊。でも、じゃあね…これは…今までと、これからの感謝の気持ち」
そう言ってあたしは自分から柊にキスをした。ほんの短い間だったのか、それとも長い間だったのか自分でも分からないけれど、唇を離すと、柊は優しい笑顔で言葉を紡いだ。
「ありがとよ…今はこれだけで充分だ。お前が俺を心の隅に置いてくれるだけでな。その代わり…俺は俺らしくお前に迫らせてもらうぜ?紳士的にな」
「そう」
そう言うとあたしたちは笑いあった。しばらく笑いあった後、柊があたしに問いかける。
「さあ、腹減っちまったな。飯にしようぜ。今日は何食いたい?」
「ん〜…柊特製のカレーも食べたいけど…あれは一日置いた方がおいしいしな…あ、そうだ。あたしロールキャベツ覚えたいの。それでいいかな」
「そうだな…じゃあ今日はロールキャベツにして、食った後明日の夕飯のためにカレーの下ごしらえするか。腕が鳴るぜ!」
「ありがと…我儘ばっかり聞いてもらっちゃって」
「いいんだよ。こういう落ち込んだ時は食いたい物を腹一杯食うのが一番さ。…そうだ。ついでに落ち込んじまった気晴らしって言っちゃ何だが、明日と明後日仕事サボって遊ばねぇか?そうじゃなくてもお前いっつも仕事無茶してやってるから、たまにはサボっても罰は当たらねぇよ。俺も今んとこ手のかかる仕事は持ってねぇから、一日二日仕事休んでも大丈夫だからな」
柊の優しさが嬉しくて、今度は何故だか素直に甘えたくなって、あたしは頷いていた。
「うん…そうする」
「よっし!決定な。ちょっと待ってろ」
そう言うと柊は携帯を取り出して誰かに掛ける。どうやら副社長の川相さんらしい。
「…ああ、秋良か?俺だ。…ああ、悪いが俺明日と明後日休暇取らせてもらう。何か緊急の用事があったら携帯に掛けてくれていいが、基本はほっといてくれ…ああ、お前と芙海に任せる。よろしく。じゃあな」
柊は携帯を切るとにっと笑って言葉を紡ぐ。
「オッケーだ。秋良と芙海に任せておきゃ、とりあえずうちの会社は大丈夫だからな。明日と明後日は何もかも全部忘れて遊び回ろうな」
「うん。ありがとね、柊」
「いいから。さ〜て、じゃあロールキャベツの支度な。材料はあったはずだから、ぱぱっと作ってのんびり食おうぜ」
「うん」
そう言うとあたし達はキッチンへ行った
――
そうしてロールキャベツを教えてもらいながら一緒に作って、のんびり楽しく食べて片付けた後、近くのスーパーにカレーの材料を二人で買い足しに行って、やっぱり教えてもらいながら、カレーの下ごしらえをした。そうして時間を見たら、いつの間にか夜の12時。さすがに眠らないと明日が辛い。あたし達は順番にお風呂を使った後、あたしは洗濯機を借りて下着と服をタイマーで洗濯にかける。そうして寝る段になって、あたし達は申し合わせるでもなく、また二人でベッドに潜り込んだ。柊はあたしを包み込む様に抱き締めたけれど、それ以上の事は何もしなかった。あたしが今一人でいたら危ないから傍にいないといけないけれど、どっちつかずのあたしの想いを知っているからこそ、肉体関係に落とし込んだらいけないっていう、あたしの事を一番に想ってくれてのこの行動だってあたしは痛い位よく分かったから、柊の気持ちを思って胸が少し痛んだ。だけど、今はあたしも柊もお互いの肉体じゃなくて体温が欲しいんだって何となく気付いた時、恋愛とか、色んな雑多なものを全て取り払った時には、こんな風に男も女もなく、ただ人として抱きあえるんだって事も、何となく分かった。そうして眠りに落ちながら、愛している将さんとは違った、そんな関係になれる柊の大切さが、ほんの少しだけれど分かった様な気がした
――