マンションに帰ると、カレーは仕上げのためにしばらく煮込まなきゃいけないからキッチンでカレーをコトコト煮込んでる間に、柊は『今日は後サラダ位しか作るもんねぇから、俺が作るよ。お前はゆっくりしてていいぞ』って言って自分がキッチンに立ってあたしをリビングで休ませてくれた。そうして休んでるとあたしの携帯が鳴る。電話に出ると、智君からだった。
『葉月ちゃん、今いいかな?』
「うん、いいよ。どしたの?」
あたしが問いかけると、智君は少し言葉を選ぶ様な沈黙をした後、ゆっくりと問いかける。
『あのさ、葉月ちゃん。…土井垣さんと…何かあったか?』
「…」
智君の率直な、でも全てを見通しているのが良く分かる言葉にあたしは一瞬言葉を失ったけど、どうして智君は分かったのか知りたくて、素直にあたしはそれを口にする。
「…どうして分かったの?」
あたしの言葉に智君は静かに、でも少し重く真剣な口調で話をしていく。
『…実はさ、昨日から土井垣さんがかなり荒れてるんだ。練習が厳しいのも俺たちがふがいないとかじゃなくって…何だか自分の中のイライラを発散させてる感じがしてさ。それに…練習から帰ると、お酒を浴びるみたいに飲んでるんだよ。俺が知ってる土井垣さんの性格から考えて、こんな大事な時、しかもチームの危機の時にこんな荒れ方する様な人じゃないから…もしかして、本当にこんな風に考えるのは悪いけど…葉月ちゃんが何かしたんじゃないかって、何となく思ってさ。それに土井垣さんが葉月ちゃんと何かあって荒れてるんだったら、葉月ちゃんもきっと落ち込んだりしてると思ってさ、心配になったんだよ。どうしたんだよ。ケンカでもしたのか?』
智君の心底将さんとあたしを心配している事が良く分かる口調に、あたしは何だか智君には全部を正直に話した方がいい気がして、ぽつり、ぽつりとこれまでのいきさつ全部を話した。智君は全部を静かに聞いた後、ぽつりと呟いた。
『そっか…柊司さんがとうとう…か』
「…うん」
『確かに、土井垣さんがいくら葉月ちゃんにベタ惚れしてるって分かってても、いつもの態度見てたら柊司さんもほっとけなくなるし、土井垣さんから奪い返したくなるよな。葉月ちゃんも土井垣さんとの事では、相当寂しかったり辛い思いしてるの、俺も良く分かってるし…で、葉月ちゃんは今柊司さんのとこに居候してるんだ』
「うん、柊が今のあたしの事ほっとけないって言ってるし、あたしも…将さんに対する裏切りかもしれないけど…今は柊の気持ちに甘えたくなってるんだ」
『そっか…』
「…うん」
智君はあたしの事を責めるでもなく、詮索するでもなく、ただ静かにあたしの言葉を聞いていた。そんな智君と話していると、何だか自分の中の気持ちが、ふっと鮮明になった気がして、ふっとそんな風に浮かんできた思いを、そんな智君に打ち明けた。
「あたし…疲れちゃったの」
『疲れたって…どういう事?』
「うん…将さんとずっとこういう曖昧な関係でいる事に…あたし…疲れちゃったの…だから…柊のまっすぐで、あったかくて優しい気持ちがすごく嬉しくて…居心地がよくて…そんな事考えてたら、将さんとの付き合いを休んで、本当にあたしが必要な人が誰かを…考えたくなっちゃったの」
『葉月ちゃん…』
「元々こういう関係になったのはあたしが言い出した事だし、将さんを傷つける、すごく悪い事してるのは良く分かってるよ…でも、何だか将さんがこうしてあたしが将さんを待ってるのが当たり前みたいに思ってきてる様に思えてきて…それが寂しくって…でもだからって関係をはっきりさせたら、関係を壊しちゃいそうで怖くって…そんないろんな事考えてたら…疲れちゃったんだ…でも…ごめんね。そんなあたしの勝手な思いで…将さんはもちろん、智君や…チームの皆さんに余計な負担を増やしちゃってるんだよね…ただでさえ今年はチームが大変なのに…ごめんね…」
あたしは言葉を零しながら、同時に涙も零れてきた。柊に、智君に、チームの皆さんに、そして誰より将さんに申し訳なくて――泣いてるのに気づいたらしい智君は宥める様にあたしに言葉を掛けてくれた。
『葉月ちゃん、泣くなよ。…でも、葉月ちゃんの気持ちは良く分かったよ。…あのさ、これは葉月ちゃんの話を聞いた俺の個人的意見だけど…土井垣さんの事は一度しばらく忘れて、葉月ちゃんがしたい様にしていいと思う。確かに土井垣さん、葉月ちゃんに甘え過ぎだって俺も思うしさ、そんな土井垣さんにはいい薬さ。それでも心配だっていうなら、土井垣さんの事は俺達に任せて。土井垣さんの扱いはむしろ付き合いの長い俺達の方が、お手のものなんだからさ。だから、葉月ちゃんはとにかく気持ちを落ち着けて、どうしたいのかちゃんと考えられるまで、柊司さんのとこにいるといいよ。多分柊司さんの想いや優しさは、今の葉月ちゃんに必要なものなんだって…俺も思うからさ』
「智君…」
『葉月ちゃんはゆっくり休んで…土井垣さんの事ばっかり考えないで、自分が本当に幸せになれる道を考えな。もしそれで葉月ちゃんが柊司さんの方を選んで土井垣さんが振られるんなら、はっきりしない態度取り続けて、ちゃんと捕まえておけなかった土井垣さんの自業自得さ。…じゃあ、とりあえず事情分かったから、後はホントに俺達に任せといて。またな』
「うん…またね、智君…あ、そうだ、山田さんにお大事にって伝えといて」
『オッケー、伝えとく』
あたしは電話を切ると涙を拭いて深呼吸する。あたしは自分の心の中に抱えていた思いを改めて気づかせてくれただけでなく、こんな卑怯で軽薄なあたしを責める事もなく、それどころか将さんよりあたしの事を考えた答えをくれた智君の思いやりが本当に嬉しかった。こんなにたくさんの思いやりに囲まれているあたしは何て幸せ者なんだろう。でもそれを返す方法をあたしは知らない。ううん、返すためにははっきりさせないといけないんだ。あたしの想いを――でも、今のあたしにはそれができない事も分かっていた。将さんの想いが、柊の想いが、あたしの想いをそれぞれ絡め取って、あたしの心は身動きできなくなっている。それを解くには、ちゃんとそれぞれの想いを身体に、そして心に沁み通らせなければいけないって、心のどこかで分かっていた。でも、そうするにはどうしたらいいか、あたしにはまだ分からない。だからとにかくそれぞれの想いを受け取ってみよう。あたしはそう思った――
その夜はカレーを二人でまた食べて片付けた後、明日は何をしようかって話し合う。あたしが『今日はあたしのリクエストを聞いてもらったから、明日は柊のリクエストを聞くよ』って言うと、柊は少し考えた後、『じゃあ、ドライブに付き合ってもらえるか。連れて行きてぇとこがあるんだ』って言った。あたしは素直に柊の気持ちが嬉しかったから『うん』って答える。そうして二人でお茶を飲んだ後、また二人で眠りに就いた。
そうして次の日の朝、柊はあたしを起こさない様に早起きしてお弁当を作ってくれた。そうして朝食を食べた後そのお弁当を持って柊の車に乗ってドライブへ出かける。都内の道路を走ってる時に『連れて行きたいとこってどこ?』って聞いたけど、柊は悪戯っぽく笑って『お前も俺も懐かしいとこだぜ』って言うだけだった。そうして車は高速に乗って、ずっと走って、気がつくとあたし達の地元の小田原で降りた。あたしが訳が分からないでいると、柊は更に郊外へと車を走らせて、曽我の梅林の入り口の駐車場で車を止めて、『降りるぜ』って言った。そうして二人で車を降りて梅林に入っていくと、今丁度花盛りの梅が香り高く咲き誇っていた。梅のいい香りと綺麗な花にあたしはふっと将さんとの事も、柊との事も忘れて、いつの間にかただその花達に包んでもらう様に目を閉じていた。そうしていると昔の懐かしい記憶が蘇ってくる。まだ恋も愛も分からなかった小さい頃、うちの家族と、柊の家族と、隆兄の家族と一緒に、忙しい合間を縫って毎年こうしてこの梅林やもう少し後の時期には近所の桜の森でお花見をした。もちろん花が綺麗だったのも、お弁当が美味しかったのも楽しかったけど、それ以上にその頃のあたしにとっては両親が忙しくって寂しかったのが、そのお花見の時は大好きな両親も柊も一緒だったからそれが何よりすごく楽しくって嬉しくって、いっつもはしゃいでたっけ――そんな事を思いながら梅の香りを胸一杯に吸い込んで、あたしは柊に向き直ると、多分きっとここ数日で最高の笑顔になった表情を柊に見せて口を開く。
「…ありがと、柊。確かに懐かしいね」
「そうだろ?…あの頃は良かったよな。難しい恋愛とか全く考えねぇで、ただ花が綺麗だとか、弁当がうまいとか、みんなで遊ぶのが楽しいからそのみんながただシンプルに大好きだ、とかしか頭になくてよ…何で大人になると、そんなシンプルな思いをなくしちまうのかな」
柊のあたしの事を気遣った行動と今の言葉に、あたしは返せるだけの言葉を返す。
「そうだね…でも、あたしの中には残ってた。難しい事は考えないで、ただ両親とお姉ちゃんと、隆兄と、誰より柊とこうやってお花見しながらお弁当食べて笑ってるのが何より楽しくって、その楽しさをくれるお姉ちゃんや隆兄や柊が…ただ大好きなんだって思いが」
「そうか?」
「うん…だからありがとう。そんな事思い出せる様にしてくれて」
「…そうか」
「うん。だから…ここでの事をちゃんと心に残して…もう少しあの頃とおんなじ様に、シンプルに考えてみるよ。柊との事も、将さんとの事も」
「そうだな。それがいい」
「じゃあ、難しい事は置いといて…早くおべんとたべよ?お腹すいちゃった」
「そうだな、俺も運転してたら腹減っちまった。今回の弁当は渾身の出来だぜ。うめぇぞ〜?」
「ホント?わ〜い!」
そうしてあたし達はここは飲食禁止の場所だったからこっそりお弁当を広げて、二人で梅を楽しみながら笑って食べて、長い間お花見を楽しんだ――
そうしてお花見を楽しんだ後、また車に乗って帰って、『今日はドライブで疲れたから、夕飯は簡単なものにしよう』って意見が一致して、残っていたご飯でうちのお母さん直伝の簡単雑炊を作って二人で食べた。この二日間とこのあったかい雑炊は、お腹や身体だけでなく何だかずっと冷えていた心を温めてくれて、その温かさが身体と心に染み透って、何だかあたしは自分が何を求めて、誰をどう愛しているのか考えていける様な気がした。それでも結論が出るまで時間がしばらくかかるのは分かっているけれど、ちゃんと自分の心が求めているものが何か感じて、答えを出そう。心からそう思った――