あたしはタクシーで柊のマンションへ戻ると、泣きながらシャワーを狂った様に浴びた。また冷え切ってしまった心が辛くて、将さんを傷つけた事が苦しくて、でもあんな風に抱かれた自分の行為の痕を洗い流したくて――そうしてシャワーから出てきた時、ちょうど柊が帰ってきた。その偶然にあたしは一つの運命の流れと今のあたしにとっての柊の存在の意味を感じて、ある決意を胸にして素肌にバスタオルを巻いたままの姿で、静かに柊の前に出ていった。柊はあたしの姿に驚いて、慌てて服を着せようと声を掛ける。
「お…おい、葉月…そんな恰好してんじゃねぇよ。おら、服着ろ。俺の理性が負けたら困るじゃねぇか」
「困らなくて…いいよ」
「おい…どうしたんだ?葉月…」
「お願い…柊…あたしを抱いて。…穢れたあたしをもう一度きれいにできるのは、柊しかいないの…」
あたしはまた涙が零れてきた。自業自得だけれど、愛じゃなくて執着で抱いているあのままの将さんに抱かれる事は穢れになってしまうと知ってしまった自分に、それを浄化してくれる存在は柊なんだって分かってしまった自分に――柊はあたしに近寄ると、包み込む様に抱き締めて、静かに問いかけた。
「何か…あったのか?」
「…」
あたしはその言葉にただ涙を流し続けた。柊は泣いているあたしを静かに抱き締めたままその涙を拭って、静かに言葉を紡ぐ。
「…後悔…しないか?このまま俺がお前を抱いちまったら…お前は完全に土井垣を裏切っちまう事になるんだぞ?」
柊の言葉に、あたしはあたしの言えるだけの言葉を返す。
「それでも…いい。あたしは…柊に抱いてもらいたいの。今のあたしは…柊に抱いてもらわないと…駄目なの。将さんがあたしを傷つける今は…だから…一度だけでいいから…お願い…」
あたしの言葉に柊はしばらく黙っていたけれど、やがて大きくため息をついて、耳元に囁く様に言葉を紡いだ。
「…まいった、陥落だ。俺も…もう止められねぇ。葉月が今心底傷ついてるのが分かるから、それを利用しちまう様に抱きたくはねぇけど…葉月の決意が…俺の中の抑えてたもんを解放しちまった。…お前が途中で嫌だって言っても止めねぇぞ?それでも…いいか?」
「いいよ…柊だったら…何しても…そう言ったでしょ?」
「…ああ」
そう言うと柊はあたしに深くキスをして抱き上げると、寝室に連れて行ってあたしを抱いた。ベッドの中の柊はただ優しく、温かく、まるで陽だまりか、昨日あたしを包み込んでくれた梅の花みたいだった。そんな柊に愛撫されて、肌を合わせていると、自分の中の様々な感情が溢れ出してくる様な気がした。寂しさや、嫉妬、不安、哀しみはもちろん、それだけじゃなくって、将さんに対する愛も、柊に対する愛も、その想いから来る温かさや迷いも全て――それを感じた時、あたしは、柊に浄化してもらうためだけじゃなくって、あたしと柊はこうしなきゃいけなかったんだって気付いた。あたしの心を本当の意味で解放するために――そうして時が熟して一つになった時、あたしは柊に『好き』でもなく『愛してる』でもなく『ありがとう』って囁いた。その言葉を聞いた柊は、ふっと相反するけど、幸福感と一片の哀しみが混じった表情で微笑んだ。そうしてあたし達は静かにお互いの体温に溶け合っていった――
行為が終わった後、柊は胸にあたしを抱きながら、静かに呟いた。
「戻れなく…なっちまったな」
あたしはその言葉に、静かに応える。
「それでも…いいよ。こうしてもらったのは、あたしをもう一度きれいにしてもらいたかったからだっていうのもあるけど、そうじゃなくてもあたしと柊は、どんな結末が待ってるとしても、一度こうならなきゃいけなかった。あたしがそれを怖がってただけだったんだって…分かったの。だから…いいんだ」
「そうか…それから」
「何?」
「お前に土井垣が何をしたのか…話してもらえるか。お前がこうしたのは、土井垣が絡んでる位は…簡単に分かるからよ」
「…」
あたしは少し迷ったけれど、ぽつり、ぽつりと今日あった事を口にする。あたしの話が進んでいく毎に柊の表情に険が増していき、全て話し終わったところで柊は拳を握り締めて、ベッドに力一杯叩きつけた。
「畜生!土井垣の野郎、葉月の傷を知ってるくせになんて事しやがった…!」
「ううん…将さんをそんな行動に駆り立てたのは…あたしのせいだから。あたしが…柊に惹かれて…柊の所に留まらなきゃ…こんな事しなかった。絶対に…だから…いいの」
「よくねぇよ!いくら嫉妬してようが、愛してるからだって言おうが、相手の一番弱い所狙って痛めつけて従わせようってのは最低だ!…もう許さねぇ。お前が土井垣を選ばねぇ限り、土井垣にはお前を渡さねぇぞ!」
「柊…」
柊は怒りと決意が混じった表情と口調で、低く呟く。
「お前が最終的な決断をするまで、俺はお前を傍に置いて守る。それであいつが何を考えようと、嫉妬しようと知ったこっちゃねぇ。俺の葉月を…ここまで追い詰めたあいつを…俺は絶対に許さねぇ」
「違うよ柊、悪いのはあたしなの。将さんと柊のどっちも選べない…あたしなの…」
そう。柊の怒りの原因も、将さんの嫉妬の原因も、全部あたしがいけないんだ。どっちつかずの態度を取って、二人の男性を愛してしまった自分が――そう思った時、あたしの中に一番正しいあたしが取るべき選択がはっきりと分かった。あたしは静かにそれを口にする。
「だから柊、あたし…もう出てくよ」
「葉月!」
「もう大丈夫。あたしは一人で…大丈夫。だから…決めた。どっちも選べないなら…あたしは二人とも選ばない。あたしはもう誰も愛さないで一人で生きていくよ。そうすればこれ以上柊も将さんも、誰も傷つかないから…将さんとは昔の通りの仲間に戻って、もっと素敵なお嫁さんを探してもらう様にする。で、柊とは仲のいい幼馴染に戻って…やっぱりあたし以外の幸せを探して?あたしは二人から、幸せな思い出は一杯もらってるもん…それがあれば親友だって仲間だって一杯いるから、恋愛なんてなくても楽しく生きていけるでしょ?だから…大丈夫だよ」
「…」
「抱いてくれてありがとう。それから…約束守れなくて…ごめんね」
そう言って精一杯の笑顔を柊に見せてキスをした後、全てを振り払うためにベッドから出ようとした時、不意に腕を掴まれて柊に背中から覆いかぶさる様に抱き締められた。あたしが柊から逃れようともがいていると、柊は表情は見えないけれど静かに、でも泣いている様な震えた声であたしに囁きかけた。
「『誰も傷つかない』だって?…お前は大馬鹿だ。もう今の時点で、お前自身が…ボロボロになるまで傷ついてんじゃねぇか。俺と土井垣に気を遣って、自分を押し殺して、傷つきまくって…あげくに一人で生きていくなんざ…俺達はともかく、お前は一生血を流し続けるじゃねぇか。そんな事は許さねぇ…いや、俺が耐えらんねぇんだよ。…お願いだ…俺を選ばなくてもいいから…そんな哀しい事、言わないでくれよ…」
「柊…」
あたしは柊の想いが分かるその言葉で何だかその温かさに包まれたくなって、静かに柊に身体を預けた。柊は力強く、包み込む様にあたしを抱き締めてくれる。柊の体温が、息遣いが、抱き締めてくれる腕の力強さが、髪や汗の香りが、あたしの心の中の迷いも、哀しい決意もゆるゆると溶かしてしまう。それはいつもの将さんに抱かれた時に感じていた感覚だった。将さんと柊、愛し方の形は違っても、同じ様にあたしの心を溶かしてくれる。そんな二人の愛が嬉しくて、でもどちらも選べない自分が哀しくて、あたしはぽつりと呟いた。
「一生…選べなかったらどうしよう」
あたしの言葉に、柊は静かに呟いた。
「大丈夫だよ。もしそうなりそうだったら、そうなる前に…俺が身を引くから」
「柊…!」
柊の言葉にあたしは驚いて柊を見つめる。柊は静かに笑うと、優しい口調で言葉を紡いだ。
「はなっから…そう決めてたんだ。葉月に俺の想いを告げた時『俺を選ぶにしろ、土井垣を選ぶにしろ、俺はその選択を受け入れる』って言ったよな。でももう一つ、葉月が決められなくて迷い続ける様だったら、俺は想いを告げた事を記念にして、身を引こうって…そう思ってた」
「柊…そんな…」
「想いが告げられただけじゃねぇ。こうやってたった一度でも…お前を抱く事が出来た。その思い出があれば俺は充分だから…いつでも俺は身を引くよ。だから気にするな」
柊の表情も言葉も、何もかもが静かで優しくて、あたしは柊があたしの前から姿を消してしまう様な気がして、それが怖くて――頼み込むみたいに言葉を紡いでいた。
「柊…そんな事言わないで。あたしは…将さんとは違った意味で、柊も愛してるんだよ…柊のあったかさや…厳しさの中の優しさは…あたしにとって誰にも代えられない、大切なものなんだよ。だから…そんな哀しい事言わないで…お願い」
「葉月…」
「確かにあたしは将さんを選んじゃうかもしれない。でもお願い、そうするか決める前に、あたしを置いて行かないで。…あたしの傍からいなくならないで…!」
あの小さな子どもの時みたいに、あたしは泣きじゃくった。そうしてあたしは将さんと柊の存在の違いがやっと分かった。将さんがあたしにとって別人格で、人生を一緒に歩いて行く形で愛している人だとしたら、柊はあたしの半身みたいな存在なんだ。どっちを伴侶に選ぶのが正しい訳でもないし、間違っている訳でもない。よりあたしが求めているのがどっちなのかって事なんだ。でも今のあたしには選べない。だって、どっちも自分にとって同じ位大切で、かけがえのない存在だから。でもいつかは選ばなければいけない、ちゃんと決着をつけるために――そうして泣いているあたしを柊は抱き締めたまま、静かに言葉を紡いだ。
「たとえ身を引いたとしても、俺は…絶対にお前の傍からはいなくならない。昔、そう約束しただろ?葉月」
「うん…」
「これは俺の勝手な思いだが…葉月は俺の身体の…いいや、魂の一部みたいな存在だって思ってる。そんな存在から…離れる事はできねぇよ」
「柊…」
あたしとおんなじ事を考えてくれている柊の気持ちが嬉しくて、でも選べなかった時に傷つく姿を想像すると胸が痛くて――あたしは静かに呟いた。
「あたしもね…柊があたしの半身みたいな存在なんだって…分かった。だから…離れられないんだね。どんなに傷ついても、傷つけても…」
「ああ、そうだな」
「もし将さんを選んだとしても…柊、あたしの傍にいてくれる?」
あたしの言葉に、柊は心から優しい微笑みを見せて答えた。
「ああ、お前は…俺の一部だ。だから、俺が俺としているために、俺はお前の傍にいる」
「…ありがとう」
あたしは柊にキスをした。傷つけてしまっている事への贖罪の思いと、何よりあたしが感じている柊への愛を伝えるために――柊もそれに応えて、あたしたちはまた肌を合わせていった――