そうして柊はそれ以降あたしを抱く事もなく、ただ『また気持ちが逆戻りしてるから、もうしばらくここにいろ』って言って、あたしを置いてくれた。家事は二人で分担して、料理を教えてくれて、一緒に食事をして、夜には二人でゲームをしたり、DVDを観たりしながらゆっくり過ごして、腕の中で眠らせてくれて――そんな優しい日々で、少しづつあたしは心をもう一度温めていった。その間、何度も将さんからは連絡が入ってきたけれど、あたしは受けなかったし、返事を返さなかった。将さんの事は心配だったけど、今のあたしは将さんに対して何もできない、ううん、逆に傷つける存在にしかならないって分かっていたから――柊の所にも将さんは何度か連絡をしてあたしを傍から離す様に強く言っていたみたいだけど、柊はその度に『葉月が何でこうしてるのか、自分の胸に聞いてみな』って言って取り合わなかった。そうして将さんのキャンプが終わる頃、あたしは少し体調がすぐれなくなっていた。食欲もあんまりないし、何だかだるくてめまいがしたり、急にものすごく眠くなったり。そんなあたしを柊はそれとなく気遣ってくれて、少しでも沢山あたしが食べられる物を用意してくれたり、家事の分担を減らしたりしてくれた。でも、いくら経っても体調は良くならない。あたしの様子に何かを感じたらしい柊は『医者行ってこい。内科よりはこういう場合は大事を取って女の身体の専門医の婦人科の方がいいかもしれねぇな』って言ってあたしを医者に送り出した。柊の言葉で、あたしもある事に思い当たる。その思いのままに婦人科で検査をしてもらったら、その結果は――
「おめでとうございます。妊娠してますよ。最終月経からすると6週目ですから…出産時期は11月の末から12月位でしょう。あなたはあまり丈夫ではありませんから、どうか身体を大切にして、出産に備えてください」
「…」
あたしは何も言えなかった。だって、この子の父親は――
「…どうかしましたか?」
「あ…いえ…急な話でびっくりしてしまって…」
あたしが取りなす様に笑うと、お医者様もにっこり笑って言葉を返す。
「そうでしょう。初めて妊娠なさった方は大抵そうなりますよ。もうしばらくしたらつわりが始まると思うので辛いかと思いますが、食べられる物を少しづつでいいですから食べる様にして下さいね。まあ、こちらへ行く様に気遣える旦那さんならちゃんと大切にしてくれるでしょうし、まず心配はいらないかと思いますけれど。ただ、流産はしやすい時期ですのでそれだけは注意して下さい」
「…はい」
「では、母子健康手帳を貰ってくださいね。それから妊婦健診も必ず受ける様にして下さい」
「…分かりました」
あたしはぼんやりしながら、それでも何とか母子手帳の手続きをして柊の部屋へ帰った。帰ると柊が待っていてくれて、心配そうに『どうだったんだ?』って問いかける。あたしが結果を話すと、柊は顔をぱっと明るくさせて『そうか…!良かったな!大事な身体だ。俺も精一杯大事にするから、お前も大事にしてくれよ!』って心底嬉しそうに言葉を紡ぐ。あたしはそれを俯いたまま聞いていた。その様子に気づいた柊は『…どうした?』って怪訝そうに問いかける。あたしは、あたしの中の言葉を口にした。
「ねえ、この子は…生まれてきていい子なのかな…」
柊はその言葉に驚いて、あたしを叱る様に言葉を紡ぐ。
「何言ってんだ!生まれちゃいけねぇ子どもなんて、誰一人いやしねぇんだ!母親がそんな酷ぇ事考えてどうすんだ!」
あたしは柊の言葉が耐えられなかった。だって、この子は――
「だって…そうじゃない…良く考えて?この子は6週目…この数え方は最後の生理から数えるのよ…?だとするといつできた子?それにあたしはAB型、それで、柊も将さんもA型よ…それが分かればあたしが言いたい事は分かるでしょ…?生まれてきてもこの子は…DNA鑑定でもしない限り、父親が将さんと柊、どっちだか分からない子なのよ!?」
「葉月…」
「将さんを選んでも、柊を選んでも、この子はどっちも苦しめる子なのよ…?それで、どっちが父親になっても…父親に憎まれたりしたら…この子が可哀想だわ。だったら…最初から生まれてこない方がきっと幸…」
「葉月!」
頬に鋭い痛みが走る。柊があたしを平手で殴ったのだ。驚いてあたしが柊を見つめると、柊は泣いていた。柊の涙の意味が分からなくてあたしは何も言えずに柊を見つめる。柊は泣きながら言葉を紡いだ。
「何て馬鹿な事言いやがる…父親が誰かなんて関係ねぇ。この子は…誰の子でもねぇ、お前の子だ。そうだろ!?その親のお前が『生まれてこない方が幸せだ』なんて、哀しい事言うなよ…今自分を宿してくれてる存在にまで疎まれたら、この子が命をもらった意味が…ねぇじゃねぇか…!」
柊の言葉で、あたしに対する、そして何よりお腹の子に対する労りが、痛い位伝わってきた。その心が嬉しくて、でもあたしの中の迷いも知って欲しくて、あたしは言葉を返した。
「柊…ごめん…ごめんね…でも…あたしは…この子に生まれてきてから哀しい思いをさせたくないの…生まれてくるなら…精一杯幸せになって欲しいの…」
「…」
あたしは泣いた。勝手な言い分だと思う。でも父親が分からないって事で、この子に余計なハンデを与えてしまった自分が憎らしかった。あたしの軽率さが招いた罪なのに、その罰を受けるのは生まれてくる子どもだなんて――泣いているあたしを、柊は静かに抱き締めると、耳元にそっと囁いた。
「葉月…もういい、いいから…何も考えるな。それで…俺と一緒になろう」
「柊…」
「腹の子がどっちの子だろうが俺はどうだっていい。父親が土井垣でも…いや誰でも、お前の子には変わりがないんだから。だから俺は愛したい…お前ももちろんだが、この子もまるごとお前の子として。だから…幸せになろう。…まずは俺と、お前と、この腹の子と」
「…」
柊の言葉に込められた愛を、あたしの心はちゃんと受け止められた。でも、あたしはまだ将さんへの想いが残っている。それに、この事を将さんに伝えない事はフェアじゃない。そう思ってあたしは言葉を紡いだ。
「…もう少し…待って。将さんにも…この事は話さなくちゃいけないと思う。それで将さんがどういう態度を取るか…それでどうするかは…決めるわ」
「…そうか」
「だから…行ってくる、将さんの所に。そうして話すわ…二人だけで」
「とはいっても大丈夫か?もし土井垣が逆上してお前にまた何かしたら…」
「その時は…それを受け入れるわ。それが…将さんを裏切ったあたしの罰だと思うから」
あたしの決意に満ちた言葉に、柊はため息をつくと、静かに口を開いた。
「…分かった、行ってこい。ただ、腹の子のためにも身体は冷やさない様にしろよ。それから、俺が調査用に使ってる小型マイクを貸してやるから、俺も一緒に行って外で待機する。万が一命の危険を感じた時だけはマイク通して俺に助けを求めろ、いいな」
「うん」
そう言うとあたし達はマンションを出た――
あたしは久しぶりに将さんに連絡を取った。電話を掛けて数コール後、心底慌てた口調で『葉月!?』っていう声が電話口から聞こえてきた。あたしは静かに言葉を紡ぐ。
「将さん…話があるの…今どこにいるの?」
あたしの言葉に、将さんはあたしを何とか捕まえていようとするかのような口調で言葉を返す。
『オープン戦も終盤で…今は俺の部屋にいる。早く来てくれ、いや、俺がそっちに行く!…俺は…お前に会いたいんだ…!』
「分かったわ…じゃあ、二人だけで話したい事があるから…あたしがこれからそっちに行くわ」
『ああ、早く来てくれ。お願いだ…!』
あたしは電話を切ると、柊の車に乗って将さんの部屋へ行った。柊を外で待たせて、合鍵を使ってオートロックの扉を開けて、部屋のある階へ上って部屋のインターホンを押すと、将さんがドアを開ける。その顔は酷く憔悴していて、痛々しくも、愛おしくもあった。将さんはあたしの顔を見るや否や抱き締めて、『…会いたかった』と囁いた。でも、不思議と以前感じていた様な胸の高まりがなく、逆にこうして抱かれている事に違和感がある事にあたしは気付いた。あたしは一体どうしたんだろう――そうして将さんは部屋へあたしを招き入れるとあったかいお茶を入れてくれた。一口飲んだところで将さんはあたしに問いかける。
「御館さんの所から…出ていく気はないのか」
あたしはその言葉に、静かに応える。
「やっと…あたしの心が落ち着いてきたから、出ていこうと思ってたけど。場合によっては…ずっといる事になるかもしれない」
「葉月…それは…?」
将さんの問いに、あたしはあくまで静かに、穏やかに、話すべき事を口にする。
「あたし…妊娠したの。…でもね」
「でも?」
「この子は…将さんと柊、どっちが父親なのか分からない子なの…DNA鑑定でもすれば話は変わってくるけど」
「葉月…そんな…」
「将さん…こんなあたしを愛せる?将さんを裏切り続けて、他の男の子かもしれない子を宿したあたしを…」
「…」
将さんは沈黙する。そうだろう。将さんは自分を裏切り続けた女を愛せる様な人じゃない。これで全ては決まったんだ。あとはあたしが想いを断ち切って、この人の幸せを祈りながら別れを告げるだけだ――そう思ってあたしが別れの言葉を口にしようとした時、将さんが絞り出す様に呟いた。
「…違う」
「…え?」
「違う…違う!その腹の子は俺の子だ!そうだろう!?葉月!そうだと言ってくれ!」
将さんの必死な眼差しと言葉に、あたしはこの人の苦しみが分かる気がした。自分の過ちから愛する女を自分の腕からすり抜けさせてしまった後悔と、あたしに対する愛憎の苦しみ――その苦しみを和らげるか、更に強めてしまうか分からなかったけれど、それと同時に今の将さんの言葉で、あたしが感じていた違和感の意味が分かって、あたしはそれを告げるために、静かに言葉を紡いだ。
「…ううん、将さんには残酷だけど、どっちの子か分からないのは本当の事よ。あたしはあの日将さんに無理やり抱かれた後、たった一度だけ柊に抱いてもらった…日数からしてこの子は多分その時の子よ。そうして柊と将さんの血液型は同じ…生まれてきてもどっちの子かは普通に暮らしていたら分からないわ。だから…将さんの子だって…言う事は出来ないの」
「そんな…」
「分かったでしょ?この話が将さんの家族に分かったら、婚約破棄は確実よ。それに…もし将さんの子じゃなかったら、将さんはこの子を愛せる?今の言葉からすると無理でしょう?だから…もう将さんと愛し合っていくことはできないの。将さんと結婚を前提としてのお付き合いはもうおしまい。また仲間としてやっていきましょう?そうして…もっと将さんに見合った素敵な女性と結婚して。その方が将さんの幸せよ。だから…さよなら」
そう言って立ち上がったあたしの手首を将さんは掴んだ。あたしが驚いて将さんを見つめると、将さんはまるで鬼みたいな顔つきで、自分の中のあたしに対する想いをぶつける様に言葉を発していった。
「違う…その子は俺の子だ…!御館さんの子であるはずがない!葉月は俺をだまそうとしているんだ!俺が今までしてきた仕打ちに復讐するために!…だがな、俺はお前を愛してるんだ!俺の幸せはお前なんだ!だから離してたまるか!お前は俺のものだ!」
「将さん…」
将さんの激しい想いの炎に、あたしは自分の心と身体が焼き尽くされる様な感覚を覚える。以前のあたしだったら喜んでその炎に身を投じたろう。でも、今のあたしの心は、無意識にその炎を恐れている事に気が付いた。それで分かった。あたしと、将さんの愛はもう随分前から終わりを告げていたんだと――あたしは、それを言葉に乗せていく。
「将さんがどう思っていても、あたしはもう将さんの想いに包まれる事ができなくなったの…だから…あたしと将さんの愛としてのつながりは…もうないのよ。将さん、辛いだろうけど気づいて。将さんのその想いは…もう執着なのよ…」
「葉月…そんな…」
「ここへ来て分かったわ。将さんが愛しているのは自分だけだって事が。もしあたしの事も愛してくれているなら…何であたしが将さんに復讐するなんて考えるの?そんな風にしか考えない将さんは愛せないし…もしこのまま結婚したとしても、生まれたこの子は絶対将さんに憎まれる…そうだとしたらこの子を守るために、将さんとは結婚できない。…だから…辛いけどさよならするわ。でもね」
「でも…?」
「あたしが将さんを愛していた長い時間があった事は確かなのよ…それだけは覚えていて」
「…」
「じゃあ…本当にさよなら。二度と会いたくないのなら…二度と将さんの前には姿を現さないわ」
そう言ってあたしは将さんの手をそっと振り解くと、合鍵と指輪をテーブルに置き、踵を返して部屋から出ようとする。と、急に将さんが背中から抱き締めて囁いた。
「…待ってくれ。最後に…二つだけ願いを…叶えてくれ」
「内容にもよるけど…何?」
「もし御館さんと結ばれたとしても…時々はお前にも…その腹の子にも会わせてくれ。『もう一人の父親』として」
「…分かったわ、約束する。もう一つは?」
「これで…最後だ。さよならのキスを…俺にくれ」
「…ええ」
そう言うとあたし達は唇を重ねた。最後の唇の感触と温かさを刻みつける様に、長い間あたし達は唇を重ねていた。そうして唇を離した時、ここへ来て初めて将さんは笑った。その笑顔は、愛を失った哀しみと、それでも心の底にまだ残っているあたしに対する愛が溢れていた。あたしは将さんの愛を受け取り切れなかった哀しさを将さんに伝える様に微笑み返した後、将さんの部屋から出ていった。マンションから出ると、柊が心配そうにあたしに寄って来た。
「大丈夫か?」
「うん。全部…終わったわ。こうやって将さんと会った事で、あたし…痛感した。将さんとの愛は…長い時間の中で、いつの間にか終わってたんだって…」
自分で言っていて涙が零れてきた。そんなあたしを柊はただ優しく抱き締めてくれた。そうやってしばらく抱き合っていたけれど、柊はあたしを気遣う様に車へ促す。
「ああ、悪い。冷えちまったな。もっと泣きたいだろうがお前は大事な身体だ、早く車に乗ってあったまれ。で、帰ったらホットミルクで悪ぃが泣き止むまで飲み放題にしてやるから…それ飲みながら、どれだけかけてもいいから、気が済むまで泣けばいいさ。土井垣との愛の終わりを自覚したってんなら…ちゃんとそれを受け入れるために」
「柊…」
あたしは柊の誰よりもあたしの事を考えての思いやりと愛が、どんな温かい物よりあたしの冷え切っていた心を温めてくれるという事をやっと自覚した。そして将さんとの別れの時に将さんに言った言葉で、あたしが愛すべき人にやっと気付いた。あたしはそれを口にする。
「…柊、車に乗る前に聞いて」
「おい、何だよ改まって」
あたしは深呼吸をすると、それでも流れる涙を止められないまま、その言葉を口にした。
「将さんと別れたばっかりで軽薄だって軽蔑するかもしれないけど…柊、あたしと一緒にいて…一生。…それで…この子のお父さんになってくれる?」
「葉月…」
柊は一瞬驚いた表情を見せたけれど、すぐに優しい、でも真剣な表情になって言葉を紡ぐ。
「ああ。お前の子の父親になれるのは最高の幸せさ。だから俺こそ頼む…俺をその子の父親にして…俺と一生一緒にいてくれ」
「…うん」
あたしは柊に身体を預けた。柊はほんの少しだけ抱き締めた後、『さあ、冷えちまう。帰ろう…俺達の家へ』って言ってあたしを車に乗せた。あたしは愛の終わりと始まりを同時に感じながら、車の窓を見つめていた――