言葉を失っている彼女に彼は何とも言えない複雑な表情を見せると、静かに問いかける。
「やはり…信じられぬかの。儂とて実際に見ているのに、未だに静殿が現れてからるい殿が引き取られるまで数年の出来事は、夢だったのではないか、と思う時があるしの。確かに静殿の親御殿はおったし、義経という二人の血を引いた存在が今この世にいるというのにのう。…しかしその静殿も義経の存在も実は夢で…いつか不意に義経も静殿同様消えてしまう…そうではなくとも…もし本当に山神の魂を引いておるならば、こんな穢れた人里に自らの末裔は置けぬと、荒行に出し続けたら、静殿の様にいつか山神に奪われてしまうのではないかと…奴を荒行に送り出す度不安になる。どうじゃのう若菜さん、静殿の…そして奴の存在は、人ではない…我らが見ておる夢なのかのう」
そう言いながらまた白湯を汲んでくれる総師の言葉に、若菜は静かに頭を振って微笑むと、そのまま囁く様な声量だったが、口調は力強く返す。
「いいえ…静おばあ様も…光さんも…夢ではありません。それに…もし本当に山神様に縁の存在だったとしても、お二人とも里の人の子として生まれ育ったのでしょう?でしたら…その様な区分けに意味はないと思っておりますが…もし神仏と人に隔たりを作れというのなら、その時点でお二人とも私達人の側の存在だと…私は思っています」
「そうかの…」
「はい」
「…そうか」
「はい。ただ、一つだけ今までのお話で、お聞きしたい事ができました。総師様がそれ程山神様に光さんを奪われてしまうのを恐れていらっしゃるのに、それでも光さんをその山での荒行に送り出している理由は…何なのですか?」
若菜のもっともな問いに、総師は一口白湯を飲んで口を潤すと、静かに言葉を紡いでいく。
「確かに、不思議じゃろうの。…あ奴を奪われてしまう不安を抱きつつ…それでも奴に荒行を行わせる儂の行動は、傍から見ればおかしいじゃろうて…しかしそれには理由があっての事じゃ。…あの荒行によって、山伏道場の次期総師としての務めをこなすという理由だけではなく…確かに山には山神もおわすが…それ以上におそらく山におって彷徨うておるだろう小太郎殿と静殿の魂を、勝手ではあるが奴にはそれとは悟らせず、慰めて…いつか出会わせてほしいというな」
「総師様、それは…?」
「当のこの地におわす山神はもちろんの事…全ての神仏は慈悲深い様に見えて実は厳しく、時に残酷じゃからの。端的なものは…文人の創作が有名とはいえ『蜘蛛の糸』の話を知っておろう?あの様な面を持っているのも確かじゃ。故にの、静殿と小太郎殿がどう決意して山で暮らし、互いのそれぞれの形で命の炎を消したとしても…戒律を破り、また形上はどうであれ実質的な面では自ら命を断つ様な形の死に方をした二人の魂では…成仏させるどころか会わせる事すら、そう簡単にはなかろうて」
「そう言われれば…そうですね」
「そして…もし二人の魂が互いを求めて彷徨うておるならば…出会わせ、成仏させる事ができる存在は…おそらく義経以外におらんであろう。山伏としても総師としても申し分のない能力を持ち…かつ二人の血を引いておる奴以外にはの」
「…はい」
「ほんに儂は勝手よのう。…戒律を破った小太郎殿も、破らせた静殿も…そして同じ様に破った義経も、申し訳ないが破らせた若菜さん、あなたも…皆許せぬとは思うのじゃが、その反面…戒律など気にせず…ただの人としての幸せを求めて、幸せになってほしいという思いも…確かに持っておるのじゃ。ほんに…勝手な爺じゃのう」
そう言って自嘲気味な笑みを見せながら、白湯をまた一口口にした総師に、若菜はまた静かに頭を振って微笑むと、言葉を返す。
「いいえ。仏法も親しんでいたとはいえ、真の意味は分からない私ですが…その聞きかじりの仏法から私は…人とはそうした相反する感情を同時に持ち合わせて、そうして迷って…救いが欲しくて仏法などにすがる、そんな勝手な存在で…それ故に愛おしいものなのではないかと思っています。こんな事を仏法に精通した総師様に申し上げるのは傲慢かと思いますが、そうして迷って、勝手な面があってこそ人は人であって…それはそれで、いいのではないですか」
「…優しいのう、若菜さん」
「いいえ、優しくなどありませんよ。私は…手塩にかけて総師として育て上げた光さんを、自分の想いを成就させることしか考えずに、総師様から奪った女ですから。…この考えは単に光さんと共にいたいがために、それを正当化するための建前であり…詭弁かもしれません」
「…たとえそうじゃとしても、そう面と向かって言えるあなたは強くて…優しいと儂は思うておる。じゃからの、爺のおせっかいかもしれぬがその若菜さんが奴との想いを貫くために、儂が小太郎殿達の事を見て、この身で経験した事から、必要じゃと思うておる事を伝えておこう」
「…はい、お願いします」
「まずはの、若菜さんのその強さや優しさは良きものじゃと思うておるが、それらに…しなやかさを加える事を怠らぬ事じゃ。小太郎殿や静殿の様な、ただ一徹な強さや優しさだけでは…同じ事を繰り返しかねん。想いを貫き通すには辛い事も多かろうが、全てをただ受け止めず、適当に受け流せるものは受け流してしまうがよい。『大木は強風に折らるるが、柳に雪折れなし』この事を心得ておいてほしい」
「はい」
「それからの、何より自らを見失わぬ事じゃ。お互いの想いを見失ってしまう事も良くないがの、それ以上にその想いに引きずられ自らを見失ってしもうたら、その事で関係を壊す事になりかねんし…何より、この山にいる時には山神の怒りを無防備に受け、命を失うことにも繋がりかねん。常に自らを省み、時に昂ぶる事があってもの、なるべく努めて穏やかに、静かに、互いの愛を見つめる事じゃ。ある外国の文人の詩じゃがの、『長持ちさせたくば軽く持つのがよし。強い絆であればこそ握り締めるは禁物。重き力を込めて掴めば、いかに固き絆もするりと滑り落つ』というものがある。実際この文人も、この詩を書いた後に出会った運命の相手と言えるであろう女性とは、二十年強共にいたのに結局結婚はせなんだそうな。そこまでは極端であるし、この詞全てが正しいとは思うておらぬが、言いえて妙な面もある。じゃからの、この詞を教訓として一片位は心の片隅においてもよかろうて。…大きく燃え上がる炎は一見熱く見ゆるがの、簡単に消す事も出来てしまう。実は小さく静かに燃ゆる埋み火の方がより熱く、そしてなかなか消えぬ強いものじゃ。故に強い絆であるからこそ、自らを…引いては相手を見失わぬ様そっと大事に、包み込む様に保つがよい。一生を添い遂げるためにもの」
「はい、ありがとうございます。お言葉…大切にします」
「とりあえずの話はこれまでじゃ。…では、遅くなってしもうたの。明日も朝早い故、お互い、寝るとするかの」
「はい。総師様、おやすみなさいませ。明日もよろしくお願いいたします」
そう言うと若菜は総師の部屋を辞し、眠りに就いた。