その夜、義経が室で夜の読誦をしていると、不意に風の音に紛れ、ほんの微かにだが違う声の読誦が彼の耳に聞こえた気がした。彼は怪訝に思い読誦を止めて神経を研ぎ澄まし、風の音に耳を傾ける。するとやはり風の音の強さにかき消されてしまう程ほんの微かではあるが、誰かが読経をする声が義経の耳に聞こえてきた。いよいよ荒行で夢うつつの状態か精神に何らかの影響が出たかと義経はほんの少しの怖れを感じたが、その読経の声自体に怖ろしさはなく、むしろ哀しさが伝わって来る様であった。そしてどうしてそうしようと思い立ったのかは自分でも分からないが、何の経を読んでいるかは微かな声から分かったのでその声に合わせ、自分もその経を読誦しようと思い立ち、その微かな声を聞き漏らさぬ様神経をもう一度研ぎ澄ませると、その声に合わせて経を読誦していく。そしてその経が進んでいく毎に、その研ぎ澄ました神経がずっと感じていた『何か』を感じ取った。視覚では『見る』事ができないがそれは確かに『人』、そして自分と同じ山伏道場の者だと感じ取る。この室では幾人もの人間が荒行を行い、そして彼の曽祖父を含め、その内の幾人かは命を落とした事を義経は知っている。ならばこの読経の主はそのうちの誰かであり、その『誰か』が荒行に無念を残し、魂のみここに留まったとでも言うのだろうか――科学的には説明できない今の状況に、神経を研ぎ澄ませていると思っているが、実はいよいよ意識が朦朧としていて自分は夢でも見ているのかと思いつつ読誦を続けると、不意に『誰か』の読経が途切れ、一筋の涙を零したのを感じ取る。見えてはいないはずなのにありありと『その光景』が脳裏に浮かぶかの様に感じ取っている自分。その今の夢うつつの状態に意味があるのならば、あえてその夢の流れに身を置いてみようと彼は研ぎ澄ました神経の照準を、涙を流した『誰か』に合わせてみる。すると室の中央にその『誰か』は座り、静かに泣いていた。義経はその『誰か』に思い切って問いかける。

――誰ぞある――

 その問いに『相手』は答えなかったが、『相手』に照準を合わせたからか、更にはっきり言葉が聞こえてきた。

――アエヌ――

――何に逢えぬ――

――コノチニオルノニ、ココニシバリツケラレ、ソナタニアエヌ――

――そなたとは誰ぞ――

――モトメオウテオルノニヒキサクトハ、ヤマガミヨ、ソレホドワレガニクイカ――

 義経の問いに答えにならぬ答えを発し、後はただ静かに涙を零すだけの『誰か』の答えに、義経はこの『誰か』が何かに会いたがっているものの、この地の山神によってこの室に留められ身動きが取れなくなっている事は、何となくだが分かった。ならばと室に研ぎ澄ました神経の照準を合わせてみると、人ならぬものが張ったらしい結界の様なものを感じ取る事ができた。とはいえ人ならぬものが張ったものであるだけに、自分の手ではなす術もない事も同時に感じ取る。ならば自分のなすべき事は何なのだろう――そう考えたその時、不意にまた別の荘厳な声が義経の心に響いてきた。

――神仏に仕える身が、望みがかなわぬと知るとその神に恨み言とは、片腹痛いのう。
やはり人とは穢れた下等な存在よ。
娘が情けをかけ、子まで為してしもうたのはやはり間違いじゃて――

 その声の荘厳ではあるが同時に傲慢な言葉に義経は幾許かの恐れはあったが、何故かそれ以上の怒りを覚え、その『声』に向かって問いかける。

――人を下等と申す、そなたは何者ぞ――

 その問いに『声』はやはり荘厳かつ傲慢な口調で返してくる。

――お前も神仏に仕える身であらば、感じれば分かろうて――

――この地におわす山神と申すか――

――だと申さば何とする――

――心広くあるはずの神仏にあるまじき今の雑言、
我はそなたを神仏とは認めぬ。
魑魅魍魎よ、退散せよ――

――お前が認めようと認めまいと、我は我じゃ。
そして今魑魅魍魎と申した我の魂を、お前は継いでおる。
山神の娘の末裔よ――

――世迷言で惑わすか、やはり魑魅魍魎。ならばこちらもそう対するまで――

 もう夢だろうが現実だろうが、義経にはどうでも良くなっていた。彼は人の嘆きを嘲笑い、悩みから解き放つどころか縛り付け、更にそれを楽しんでいる様に見える『神』と称するその声の主に強い怒りを感じ、このような存在は断じて神ではなく、もし本当に『それ』がここに『存在する』のならば、『それ』は自らを含めた荒行を行う者達を惑わす魑魅魍魎の類と判断し、退散させるために改めて読誦を始める。しかし声の主はそれをやはり嘲笑うかの如くまた声を掛けてくる。

――神仏に魑魅魍魎を払うための読誦とはの。心地よいわ。
神と魑魅魍魎の区分けもできぬとは我の魂を継いでいる身とはいえ
やはり愚かで下等な人、しかも神仏に仕える身から色欲に堕落した血筋よのう。
丁度良い。人に我の魂の欠片を持たせるのはもうやめじゃ
このまま果てるがよい――

 その声と共になす術もなく気持が乱れていき、夢かうつつか分からなくなり、その狭間に飲み込まれそうになった時、不意に温かな光が室に差し込んで結界が弾けたのを義経は感じた――


 若菜は静かに眠りに就いていたが、ふとその夢うつつの中、童歌の様な歌が聴こえてきた。

――むかしむかしの物語
この山におわす山神の
末の娘の山姫が
里の若者に恋をした

人は神より早く散る
けれど想いが通じたか
輪廻の糸は幾度も
この地に彼を呼び戻す

幾度も回る糸車
輪廻の糸の糸車
幾度回った時だろう
山姫は神の身を捨てた

その時の生の若者は
神と仏に仕える身
それでも愛しき若者に
添い遂げるために人となる

人に生まれた山姫は
若者の前に現れた
輪廻の糸を感じたか
若者も姫に恋をした

神と仏に背くかと
皆は二人を裂かんとす
それでも二人は離れない
輪廻を越えた恋ゆえに

二人は想いを貫いて
若者は姫を妻にした
姫は静かに寄り添うた
寄り添うだけで満たされた

しかし許さぬ者がいた
姫の父親山の神
穢れた人と交わった
末の娘が許せない

父の山神引き戻す
姫の魂引き戻す
その身を尽くして抗えど
姫は父にはかなわない

山で暮らしていた故に
姫はその身を弱らせる
父に魂奪われて
姫はその身を弱らせる

ついに山姫父神に
連れ戻されて息絶える
それでも最後の抗いで
命のかけらを産み落とす

命のかけらを産み落とし
姫の人の身息絶えた
それでも姫はもう一度
寄り添うために時を待つ

しかし残った若者は
姫を探して山で散り
これぞ好機と山神は
山に若者を閉じ込めた

傍にいるのに近づけぬ
触れられるのに触れられぬ
恋しき人の魂は
山に縛られ泣いている

輪廻の糸の糸車
もつれたままに止まれり
糸を断ち切る術もなく
山姫もただ泣いている

ああ帰りませ帰りませ
互いの糸を断ち切りて
もう一度出会い寄り添うて
永遠の園へと帰りませ――

『…?…』
 夢うつつの状態で、若菜はその歌を聴いていた。優しいが寂しくか細いその歌声の主が誰だろうと、声のする方へ顔を向ける。そこには和服姿の自分――いや、自分に少し似てはいるが自分ではない、長い黒髪の女性が寂しそうにこちらを向いて微笑んでいた。恐ろしさは感じないが、この状況に何と言っていいか分からずその女性を見つめていると、女性は彼女のボストンバッグを静かに指差す。その指の先には若菜が常に身につけている、地元小田原からほど近く縁も深い、箱根の九頭龍神社の守り袋があった。これに何か用なのだろうか――若菜は起き上がると守り袋をバッグから外し、『彼女』に手渡そうとする。しかし『彼女』は静かに頭を振ると、若菜の手にその守り袋を握らせそのままその手を引き、外へ連れ出し、共に山を登って行く。若菜は連れられながらも不思議な感覚を持っていた。自分は今確かに裸足で寝巻のまま上着も着ずに外に出て険しい山道を登っているし、外は相変わらず吹雪が吹き荒れているのに、寒さも風や雪の冷たさも、山の険しさや吹雪に対する辛さも感じない。その上、この傍から見たら異常事態のこの状況を自然に受け入れていた。何かを自分はしなければいけない。そのためにはこの流れに流されなければならない、と――そう自覚した後は、ただひたすらに彼女に手を引かれるまま共に山を登って行く。と、やがて簡素な室へとたどり着き、『彼女』がまたその室を哀しげな瞳で指差す。ここに入って欲しいという事なのだろうが、今度は何故か『彼女』も近づかないし、若菜自身も近づけない雰囲気を感じ取る。入ろうかどうかためらっていると、不意に手にしていた守り袋から熱を感じるとともに、一筋の光が室に向かって伸び、室の入り口で弾けたのを感じるとともに、優しいが毅然とした老人の声で『愛おしきものを守りたいなら、入るがよい。助力いたす』と聞こえてきた。その声で若菜はやっとこの室で義経が荒行をしていて、なにがしかの危機に陥っているのだと理解した。自分が何の役に立つかは分からない。でも、彼の身を守りたい、守らなければ――その一心になった若菜は、迷わず室に飛び込んでいた――