二人の子供にルイーゼが加わって、屋敷は一気に賑やかになった。ルイーゼもエルンストと共に、主にはクラウスの遊び相手になる事が仕事だったがエルンスト同様、根が働き者なのだろう。自分ができる仕事を見付けては先輩の女中や女中頭として復帰していたマリアに聞きながら仕事をこなし、覚えていった。何よりテオドールが彼女を可愛がり、この屋敷に慣れる様に、それとなく気を遣ってもいた。テオドールの気遣いとルイーゼのそうした一生懸命さが認められて、彼女は女中達からの評判も上々で、彼女はゆっくりとこの屋敷に馴染んでいった。そうして賑やかな日々が過ぎていき更に一年程経ったある日、エルンストは祖父であるハンスから嬉しい知らせを聞いた。
「…明日から坊ちゃまの訓練が始まるそうだよ」
「そうなの?クラウス、一人前の超人になるのが夢だって、いつも言ってたもんね。きっと大喜びだろうな!」
はしゃぐエルンストを、ハンスは複雑な表情で見詰める。次期当主が訓練を始める時、次期執事も同様にある選択をしなければならない。この子はどういう道を進むのか――。祖父として、先輩執事として何か助言を与えるべきなのかもしれないが、この選択は自分が決めなければならない。助言はむしろ障害となるだろう。
「…エルンスト」
「なあに、おじいちゃん」
「…これから坊ちゃまが超人としての訓練を受けるのと同じ様に、お前も今以上に執事としての仕事を覚えてもらわなくてはいけない。しかしその前にお前が決めなければならない事があるんだよ」
「ふうん…それは何?」
「私の口からは言えないよ。…だんな様から話があるだろう」
「…?」
隠し事を絶対にしない祖父が言えない事。それは一体なんなのだろうか――
その日の夕方、エルンストはブロッケンマンに呼び出された。まだ年端もいかない自分に当主が何の用事なんだろう、もしかしてこれが祖父の言っていた事なのだろうか――不思議に思いつつも、エルンストはブロッケンマンの部屋へ訪れた。ドアをノックをすると中から「入れ」という声。エルンストがドアを開け部屋に入ると、ブロッケンマンは椅子に座っていた。エルンストが彼に向き合うと、おもむろに彼は口を開いた。
「…明日からあれの訓練を始める」
「はい、おじいちゃんから聞きました」
「そこでだ。…お前も訓練を受ける気はないか」
「え…?」
驚くエルンストに、ブロッケンマンは続ける。
「代々の執事の中には、当主と共に超人となった者が何人かいる。ハンスやクラウスはそうはならなかったが、執事にはそうしたものも求められる時があるのだ」
「そうなんですか…」
やっと祖父の話と一致したエルンストは、のんびりとだがある種の緊張を持ってその言葉を聞いた。ブロッケンマンは更に続ける。
「何よりあれには参謀となるべき人間が必要となる。私にはテオドールがいたが、あれにはそういった者ができるかどうか分からない。…その点、お前なら安心できる」
「だんな様…」
「どうだ、一緒に訓練を受けないか」
「…」
エルンストは迷った。自分も超人として、親友の傍にいられる。それはとても魅力的な響きだった。しかし、超人となった時自分に何ができるのか――エルンストは長い間迷っていたが、やがて一つの思いが頭をよぎり、それを素直に口に出した。
「…やめておきます」
「何故だ」
ブロッケンマンの問いに、エルンストはきっぱりと答える。
「超人になれば、クラウスと一緒にいられる時間は増えるでしょう。そして、戦う仲間にもなる事ができると思います。でも…」
「でも?」
「人間として、クラウスの戦いを支えるのが僕の仕事だと今思いました。…訓練を受けたいという気持ちも少しはありますが、今悩んでいるなら訓練に迷いが出ます。だから受けません。僕は、おじいちゃんやお父さんの様に、人間の執事としてクラウスを支えます」
「…そうか」
ブロッケンマンは納得したように頷くと、呟く様に言葉を続けた。
「…お前も、やはり祖父や父の血を引いているのだな」
「え?」
驚くエルンストに、ブロッケンマンは昔を懐かしむ様な表情を見せ、言葉をかけた。
「これは私が聞いた話だが、ハンスも今のお前と同じ様な事を言って断ったそうだ。そしてお前の亡くなった父クラウスの方は、『テオドールが超人として私を支えるなら、自分は人間として私を支えるんだ』と言っていた…」
「…そうですか…」
「しかし、基礎の格闘技の訓練と語学は共に受けてもらうぞ。当主の不在時にこの屋敷を守る事も、執事の役目の一つだからな」
「はい」
エルンストは頷いた。しばらく沈黙が続いたが、やがてそれを破る様にブロッケンマンが口を開く。
「訓練が始まったら、私とあれは親子という事を忘れなければいけない。…そうしなければ訓練に支障が出る」
「そうですか…でもそれじゃクラウスは…」
親友の寂しさを理解しているエルンストは心配になり、小さな声で呟く。その呟きが聞こえたのか、ブロッケンマンは更に言葉を重ねた。
「あれの寂しさは私も分かっているつもりだ。…訓練であれは更に辛い思いをするだろう…しかし、私は手を差し伸べる事はできない」
「そんな…」
絶句するエルンストをブロッケンマンはしばらく見詰めていた。そして暫くの沈黙の後、静かな声で意外な言葉を口にした。
「エルンスト、私の代わりに…あれを頼むぞ」
「え…?」
当主の意外な言葉にエルンストは驚いたが、やがてにっこりと微笑んで力強くうなずいた。
「はい、もちろんです。…だんな様」
その夜、エルンストはなかなか眠れずに夜を過ごしていた。眠れずにベッドで動き回り、何とか眠ろうとしていると、かすかにドアをノックする音が聞こえてきた。エルンストは起き上がり、ドアのところに行く。
「誰?こんな時間に」
「エルンスト…ボクだよ」
「クラウス…」
エルンストは驚いてドアを開ける。時々こうしてクラウスが自分の部屋で夜を明かす事はあったが、こんな遅い時間に来たのは初めてである。
「明日から訓練なんでしょ?こんな時間に起きてていいの?」
「うん。でも…訓練が始まっちゃったら、きっとここにはあんまり来れなくなるから…今日はここにいてもいいでしょ?」
「そうだね。…とにかく入ってよ」
エルンストはクラウスを部屋へ招き入れる。
「とりあえず、ベッドはいつもみたいに二人で半分こだね」
「そうだね」
二人は笑いながらベッドに潜り込むと、取りとめもなく話をした。やがて、クラウスがぼんやりと口を開く。
「明日から訓練かぁ…」
「怖いの?クラウス」
エルンストの問いに、クラウスは悲しげな表情で首を振り、口を開く。
「ううん…訓練は怖くない。でも今日父さんから『訓練を始めたらもう親子じゃない』って言われたんだ…ボクには父さんを父さんじゃないなんて思えないよ…」
「クラウス…」
「それに、父さんがボクの事を自分の子供じゃないって思う様になるんだったら、訓練なんか受けたくないよ。…ボクはずっと、父さんの子供でいたいもん」
ポロポロと涙をこぼすクラウスの頭を撫でながら、エルンストは自分に向けられた当主の言葉を思い出し、ゆっくりと口を開く。
「クラウス…おじいちゃんがね、超人になるための訓練はとっても大変で、親子でも仲が悪くなっちゃうことがあるんだって言ってたよ。きっとだんな様はクラウスとずっと仲良くしていたくて、大変な訓練の間は親子だっていう事を忘れて頑張って欲しいって思ったから、そう言ったんじゃないかな」
「うん、ボクもハンスに同じ事言われた。…でもボクは父さんがボクの事を自分の子供だって思ってくれないなんて、我慢できないよ…」
「…大丈夫だよ、絶対だんな様はクラウスの事を忘れない。それに万が一忘れても…僕がいるから」
「エルンスト」
クラウスはびっくりした様にエルンストの方を見る。エルンストは真剣な眼差しで続けた。
「僕は何があっても、絶対クラウスの傍にいるから。…きっとルイーゼだって傍にいてくれるよ。三人で一緒にいれば、きっと悲しい事も辛い事も我慢できるよ!今までだってそうだったでしょ?」
エルンストの言葉に、クラウスはゆっくりと微笑んで答えた。
「うん…そうだね」
「さあ、明日から早いんでしょ?もう寝よう?訓練一日目から居眠りなんていったら、それこそだんな様に大目玉だよ」
「うん」
クラウスはやっと明るく笑うと、安心したのか目がとろんとしてきて、やがて静かな寝息をたて始めた。エルンストはそれをしばらく優しい目で見守っていたが、やがて自分にも睡魔が襲ってきて軽いあくびをする。
『そうだよね。…どんなになっても僕達はずっと一緒だよね…』
エルンストは暖かな気分に満たされながら、深い眠りに落ちていった。
「…明日から坊ちゃまの訓練が始まるそうだよ」
「そうなの?クラウス、一人前の超人になるのが夢だって、いつも言ってたもんね。きっと大喜びだろうな!」
はしゃぐエルンストを、ハンスは複雑な表情で見詰める。次期当主が訓練を始める時、次期執事も同様にある選択をしなければならない。この子はどういう道を進むのか――。祖父として、先輩執事として何か助言を与えるべきなのかもしれないが、この選択は自分が決めなければならない。助言はむしろ障害となるだろう。
「…エルンスト」
「なあに、おじいちゃん」
「…これから坊ちゃまが超人としての訓練を受けるのと同じ様に、お前も今以上に執事としての仕事を覚えてもらわなくてはいけない。しかしその前にお前が決めなければならない事があるんだよ」
「ふうん…それは何?」
「私の口からは言えないよ。…だんな様から話があるだろう」
「…?」
隠し事を絶対にしない祖父が言えない事。それは一体なんなのだろうか――
その日の夕方、エルンストはブロッケンマンに呼び出された。まだ年端もいかない自分に当主が何の用事なんだろう、もしかしてこれが祖父の言っていた事なのだろうか――不思議に思いつつも、エルンストはブロッケンマンの部屋へ訪れた。ドアをノックをすると中から「入れ」という声。エルンストがドアを開け部屋に入ると、ブロッケンマンは椅子に座っていた。エルンストが彼に向き合うと、おもむろに彼は口を開いた。
「…明日からあれの訓練を始める」
「はい、おじいちゃんから聞きました」
「そこでだ。…お前も訓練を受ける気はないか」
「え…?」
驚くエルンストに、ブロッケンマンは続ける。
「代々の執事の中には、当主と共に超人となった者が何人かいる。ハンスやクラウスはそうはならなかったが、執事にはそうしたものも求められる時があるのだ」
「そうなんですか…」
やっと祖父の話と一致したエルンストは、のんびりとだがある種の緊張を持ってその言葉を聞いた。ブロッケンマンは更に続ける。
「何よりあれには参謀となるべき人間が必要となる。私にはテオドールがいたが、あれにはそういった者ができるかどうか分からない。…その点、お前なら安心できる」
「だんな様…」
「どうだ、一緒に訓練を受けないか」
「…」
エルンストは迷った。自分も超人として、親友の傍にいられる。それはとても魅力的な響きだった。しかし、超人となった時自分に何ができるのか――エルンストは長い間迷っていたが、やがて一つの思いが頭をよぎり、それを素直に口に出した。
「…やめておきます」
「何故だ」
ブロッケンマンの問いに、エルンストはきっぱりと答える。
「超人になれば、クラウスと一緒にいられる時間は増えるでしょう。そして、戦う仲間にもなる事ができると思います。でも…」
「でも?」
「人間として、クラウスの戦いを支えるのが僕の仕事だと今思いました。…訓練を受けたいという気持ちも少しはありますが、今悩んでいるなら訓練に迷いが出ます。だから受けません。僕は、おじいちゃんやお父さんの様に、人間の執事としてクラウスを支えます」
「…そうか」
ブロッケンマンは納得したように頷くと、呟く様に言葉を続けた。
「…お前も、やはり祖父や父の血を引いているのだな」
「え?」
驚くエルンストに、ブロッケンマンは昔を懐かしむ様な表情を見せ、言葉をかけた。
「これは私が聞いた話だが、ハンスも今のお前と同じ様な事を言って断ったそうだ。そしてお前の亡くなった父クラウスの方は、『テオドールが超人として私を支えるなら、自分は人間として私を支えるんだ』と言っていた…」
「…そうですか…」
「しかし、基礎の格闘技の訓練と語学は共に受けてもらうぞ。当主の不在時にこの屋敷を守る事も、執事の役目の一つだからな」
「はい」
エルンストは頷いた。しばらく沈黙が続いたが、やがてそれを破る様にブロッケンマンが口を開く。
「訓練が始まったら、私とあれは親子という事を忘れなければいけない。…そうしなければ訓練に支障が出る」
「そうですか…でもそれじゃクラウスは…」
親友の寂しさを理解しているエルンストは心配になり、小さな声で呟く。その呟きが聞こえたのか、ブロッケンマンは更に言葉を重ねた。
「あれの寂しさは私も分かっているつもりだ。…訓練であれは更に辛い思いをするだろう…しかし、私は手を差し伸べる事はできない」
「そんな…」
絶句するエルンストをブロッケンマンはしばらく見詰めていた。そして暫くの沈黙の後、静かな声で意外な言葉を口にした。
「エルンスト、私の代わりに…あれを頼むぞ」
「え…?」
当主の意外な言葉にエルンストは驚いたが、やがてにっこりと微笑んで力強くうなずいた。
「はい、もちろんです。…だんな様」
その夜、エルンストはなかなか眠れずに夜を過ごしていた。眠れずにベッドで動き回り、何とか眠ろうとしていると、かすかにドアをノックする音が聞こえてきた。エルンストは起き上がり、ドアのところに行く。
「誰?こんな時間に」
「エルンスト…ボクだよ」
「クラウス…」
エルンストは驚いてドアを開ける。時々こうしてクラウスが自分の部屋で夜を明かす事はあったが、こんな遅い時間に来たのは初めてである。
「明日から訓練なんでしょ?こんな時間に起きてていいの?」
「うん。でも…訓練が始まっちゃったら、きっとここにはあんまり来れなくなるから…今日はここにいてもいいでしょ?」
「そうだね。…とにかく入ってよ」
エルンストはクラウスを部屋へ招き入れる。
「とりあえず、ベッドはいつもみたいに二人で半分こだね」
「そうだね」
二人は笑いながらベッドに潜り込むと、取りとめもなく話をした。やがて、クラウスがぼんやりと口を開く。
「明日から訓練かぁ…」
「怖いの?クラウス」
エルンストの問いに、クラウスは悲しげな表情で首を振り、口を開く。
「ううん…訓練は怖くない。でも今日父さんから『訓練を始めたらもう親子じゃない』って言われたんだ…ボクには父さんを父さんじゃないなんて思えないよ…」
「クラウス…」
「それに、父さんがボクの事を自分の子供じゃないって思う様になるんだったら、訓練なんか受けたくないよ。…ボクはずっと、父さんの子供でいたいもん」
ポロポロと涙をこぼすクラウスの頭を撫でながら、エルンストは自分に向けられた当主の言葉を思い出し、ゆっくりと口を開く。
「クラウス…おじいちゃんがね、超人になるための訓練はとっても大変で、親子でも仲が悪くなっちゃうことがあるんだって言ってたよ。きっとだんな様はクラウスとずっと仲良くしていたくて、大変な訓練の間は親子だっていう事を忘れて頑張って欲しいって思ったから、そう言ったんじゃないかな」
「うん、ボクもハンスに同じ事言われた。…でもボクは父さんがボクの事を自分の子供だって思ってくれないなんて、我慢できないよ…」
「…大丈夫だよ、絶対だんな様はクラウスの事を忘れない。それに万が一忘れても…僕がいるから」
「エルンスト」
クラウスはびっくりした様にエルンストの方を見る。エルンストは真剣な眼差しで続けた。
「僕は何があっても、絶対クラウスの傍にいるから。…きっとルイーゼだって傍にいてくれるよ。三人で一緒にいれば、きっと悲しい事も辛い事も我慢できるよ!今までだってそうだったでしょ?」
エルンストの言葉に、クラウスはゆっくりと微笑んで答えた。
「うん…そうだね」
「さあ、明日から早いんでしょ?もう寝よう?訓練一日目から居眠りなんていったら、それこそだんな様に大目玉だよ」
「うん」
クラウスはやっと明るく笑うと、安心したのか目がとろんとしてきて、やがて静かな寝息をたて始めた。エルンストはそれをしばらく優しい目で見守っていたが、やがて自分にも睡魔が襲ってきて軽いあくびをする。
『そうだよね。…どんなになっても僕達はずっと一緒だよね…』
エルンストは暖かな気分に満たされながら、深い眠りに落ちていった。
――僕達はずっと、ずっと一緒だよ――