数日後、新聞ではアマーリエとフランツの結婚話が取り上げられ、大騒ぎになった。『ドイツの鬼』と呼ばれる残虐超人であるブロッケンマンと『ピアノの歌姫』と愛されるアマーリエの恋――これは国民達には許せない事であった。これは何かの間違いだ、いや、きっとブロッケンマンが何かの策略で、彼女を陥れたのだ――様々な憶測があいまって、いつの間にか『ドイツの鬼に騙された哀れで愚かな歌姫』というストーリーが国民の中には出来上がってしまい、連日フランツの屋敷やアマーリエの住んでいるミーテハウスには嫌がらせや投石が行われる様になっていた。彼の事を知っているゲオルクとローザを筆頭とする酒場の面々や、カタリーナとケーテを始めとするミーテハウスの人間は応援してくれたが、連日の攻撃を逆手にとって親族達が『貧しいピアニストなどを花嫁にするというからこうなるのだ』と言い募り、二人は追い詰められていった。彼女を、彼を守るためには別れを告げるしか道がない――二人はお互いに哀しい決意を胸にする様になった。そして『その夜』、アマーリエの部屋にフランツは足を運ぶ。部屋に入るやいなや、彼は彼女を抱き締める。
「…会いたかった」
「私も…会いたかった」
部屋に一緒にいたカタリーナはそれを見ると何かを感じたのか、ふっと微笑んで口を開いた。
「あたし、今夜は他の友人の家に行くわ。帰らないから二人でゆっくり過ごして」
「カタリーナ…」
「…ありがとう」
カタリーナはウィンクしたが、ふっと哀しい微笑みを見せて部屋を出て行く。彼女にも分かったのだろう。これが二人の最後の逢瀬であると――二人はソファに並んで座り、言葉少なに話し出す。
「…すまん。約束は、守れそうにない…」
「…いいの。フランツが無事で…幸せなら、私はそれで生きていける…だけど」
「だけど?」
「もう…さよならだから…一度でいい…抱いて」
「アマーリエ…」
フランツはアマーリエを見詰める。彼女の蒼みがかった緑の瞳は、ただひたすらに彼だけを見詰めていた。その瞳に吸い込まれる様に、彼は彼女と唇を合わせ、彼女を抱いた。お互いだけをただひたすらに求め合っているのに結ばれぬ恋、そのたった一つの思い出として――やがて、彼女を抱き締めて眠っていた彼は、早朝に目を覚ますと彼女を目の奥に焼き付ける様にじっと見詰め、その髪をすく。と、彼女も目を覚まし同じ様に彼を見詰める。そして深く唇を合わせると、彼は呟いた。
「これで…別れなんだな」
「ええ…さよなら…ねぇ」
「何だ?」
「あなたからもらった時計…持っていていい?せめて、思い出だけは持っていたいの…」
「ああ、持っていてくれ。…私の想いはずっと…お前だけに捧げられるものだから」
「…そう」
フランツは着替えると見送るアマーリエを背にして部屋を出る。ドアを閉めた刹那、たとえドア越しであっても彼には彼女が泣き崩れたのが分かった。二度とは会えぬ後朝の別れ――彼は痛む胸を堪えながらもミーテハウスを後にした――
フランツとアマーリエが別れたと知った国民は沈静化し、彼女のピアノは表現力に更に深みが増したと更に高い評価を受ける事になった。そしてフランツは実権を握ろうとする親族達の手によって新たなる花嫁の候補が続々と出されてくる。しかし彼にとってアマーリエ以外は誰でもよかった。そんな気持ちで候補を眺めていると、親族が渡してきた一枚の写真が目に留まる。アマーリエに面影が似ている女性――名をマルヴィーダ・フォン・ブロッケンと言った――彼女ならば愛せるかもしれないと絶望的な期待を持ちながら、花嫁は彼女にするとクラウスとテオドールに言った。全てを聞いたマクシミリアンはフランツを呼び出し、問い掛ける。
「…本当に、これでいいのか」
「…いいのです。アマーリエを守るためなら…私はどんな生き方でも選びます」
「…そうか、お前も知っての通り、私から言える事は何もない。お前がそう決意するなら見守ろう」
「はい」
「…畜生!どうしてこうなっちまうんだよ!」
「フランツとの別れが、アマーリエのピアノを冴えさせた…皮肉ですね」
「しかもあいつがマルヴィーダを選んだ理由はアマーリエに似てるからだろ?絶対」
「ええ。おそらく彼女と結ばれない事で、絶望もしているのでしょう。…一応調べましたが、マルヴィーダ嬢は聡明で優しく、フランツにも好意を寄せていてくれますが…所詮は身代わりです。この結婚が愛のないものになるのは確実です」
「俺を見てて…何でこういう選択をしやがるんだあいつは!」
「全くです…これでは全てが不幸になります。フランツも、アマーリエも、そしてこうして選ばれたマルヴィーダ嬢も…」
「どうする…?」
「壊すしかないでしょう…この縁談を」
「でもどうやって?」
「お互いの気持ちをもう一度合わせるんです。もう二度と離れる事のない様に。ただ、テオドールとローザには少し痛い目に遭ってもらわなければなりませんが…いいですか?」
「ああ、あいつらのためなら俺はどんな事でもするぜ。ローザも絶対そう言うと思う」
そう言うと二人は作戦を立てる。今度こそ、二人が生涯離れる事のない様に――