それから一ヶ月、マルヴィーダとの婚礼の話が進んだ頃、フランツはクラウスから白い封筒を差し出される。その中身はコンサートのチケットが二枚。そしてその演者は――驚くフランツに、クラウスはにっこりと微笑んで言葉を紡ぐ。
「これが…あなたが贈った物への『返事』の様ですね。確実に届く様に、ローザからテオドール経由で届きました」
「クラウス」
「マルヴィーダ嬢と行くといいでしょう。そして…想いを断ち切るなら断ち切りなさい。私達はそれ以上何も言いません…ただ」
「ただ?」
「あなたが『別の選択』をする、というのなら…私達は全力で後押しします」
「クラウス…?」
 クラウスは微笑むのみ。フランツはそれをただ見詰めていた――

「アマーリエ・シェリングのコンサートに誘って下さいますの?何て素敵なお誘いでしょう!」
 マルヴィーダは聡明な女性と言っても、世間から離れた世界に暮らす深窓の令嬢のため、二人の間に起こった事を全く知らない。今回のコンサートも、偶然チケットが手に入ったと思って純粋に喜んでいる様だ。フランツはそんな彼女を見て胸が痛んだが、それでも彼女の演奏を聴きたいという気持ちは抑えられず、彼女を連れて会場へ向かった。指定されたボックス席へと腰を下ろし、しばらくすると薔薇色のドレスを着たアマーリエと、薄い藤色のドレスを着たカタリーナが出て来て一礼する。客席からは拍手が起こり、マルヴィーダも拍手をしていた。そして二人は顔を見合わせて頷くと、アマーリエのピアノでカタリーナが彼のいるボックス席を見詰めながら歌い始める。それは聞いたことのない歌だった。

――浅い眠りに浮かぶのは
私を照らすあなたの微笑み
叶わぬ望みを胸に抱き
私は歌う恋の歌
風に乗せればこの歌は
あなたの耳に届くでしょうか
私の想いはどうすれば
あなたに伝えられるでしょうか――

 フランツは確信する。これは自分に向けられた恋歌。アマーリエの心は全く変わらず、自分に捧げられていると――短い歌だった。しかし、それで充分だった。クラウスに言われ、迷いながら書いた彼女へ自分の気持ちを伝えるために綴ったたった一言『Ich liebe dich』のみの手紙から、彼女はこんなに大きな想いを返してくれた。それは自分の想いを改めて奮い立たせ、貫き通す決意をもう固めるには充分過ぎる程の想いだった――マルヴィーダを含めた観客からは拍手が湧き上がる。それでも彼は無言でアマーリエを見詰めていた。それに気付いたらしいアマーリエがこちらに向けて黙礼する。今は互いにこれだけしかできない、でも――
「…どうなさったの?」
「…いや」
 無言で舞台を見詰めるフランツを不思議に思ったのか、マルヴィーダは問い掛ける。それに気付いた彼は宥める様に彼女に微笑みかけると、彼女の演奏とカタリーナの歌に聴き入った。彼女の技術も表現力も、別れた時から数段上がっていた。そしてカタリーナの歌が更にそれを増幅させる様に寄り添い、彼女の演奏もそれに応え、カタリーナの歌を素晴らしいものに磨き上げる。お互いの友情が紡ぎ出す旋律と歌声の素晴らしさに、彼は感動した。そしてコンサートは終わり、彼はマルヴィーダを先に帰らせると、会場の外で彼女が出てくるのを待つ。会えないかもしれない。でももし、会う事ができたら――彼の祈りが通じたのか、カタリーナと話しながら彼女が歩いて来る。そして顔を前に向け――彼女は立ち尽くす。彼は優しく微笑みかけながら口を開いた。
「…ありがとう」
「フランツ…!」
 アマーリエはフランツの胸に飛び込んだ。彼は彼女を抱き締めると、その耳元に囁く。
「もう迷わない。どんな事があっても…共にいてくれるか?」
「…ええ」
「良かったわね、アマーリエ。気持ちが通じて。…でも、あなたと別れるのは寂しいわ」
「ありがとう、カタリーナ。それに…ごめんなさい」
 申し訳なさそうに口を開くアマーリエに、カタリーナはにっこり笑って返す。
「いいのよ!あなたが幸せになれるんだったら、最高に嬉しいわ!それに…さよならは、早いのか、遅いのか、それだけで…いつかは訪れるものよ」
「カタリーナ…」
「結婚式には呼んでね。…お祝いに、あなたのお姉さんと合唱してあげるんだから」
「…ええ」
 アマーリエは涙でくしゃくしゃの顔になりながらも微笑む。カタリーナはそんな彼女に微笑みを返すと、片手を挙げてフランツに言葉を掛けた。
「じゃあフランツ。後は任せたわ。引越しの時は早めに言ってね」
「ああ、分かった」
 そう言うとカタリーナは去って行った。フランツは彼女を抱き締めたまま呟く。
「帰ろう…私の、いや…私達の屋敷へ」
「…ええ」
 二人は寄り添い合って屋敷へ戻る。帰るとクラウスとテオドールが笑顔で迎えてくれた。
「お帰り。やっぱりこうなったな」
「お帰りなさいませ。お部屋はもう用意してあります」
 二人の歓迎に照れながらも二人は微笑んでそれを受ける。それを横で見詰めていたハンスが、不意にアマーリエに寄って行き、言葉を掛けた。
「これからは、あなたがこの屋敷の女主人です。とはいえ、様々な辛い事があるでしょう…でも、私達にお任せ下さい。私達はあなたの味方です」
「ハンスさん…」
「ハンスとお呼び下さい。あなたはもう主なのですから」
「では…ハンス、これからどうかよろしくご教授お願い致します」
「はい、奥様」
 ハンスは一礼するとアマーリエを部屋へと案内し、お茶を入れる。彼女は微笑んでそれを飲み、様々なしきたりを聞いていった。ハンスは『一晩では教えきれないから』とまずはゆっくり休む様に彼女を労わり、部屋を出て行った。それと入れ替わりにフランツが入ってくる。
「花嫁を…略奪してしまったな」
「…そうね」
 苦笑するフランツにアマーリエも微笑んで同意する。と、不意に『ある事』を思い出し、心配な表情で彼女は問いかける。
「ねぇ…あの、コンサートで一緒にいた女の人は…いいの?」
 アマーリエの言葉に、フランツは少し考えると口を開いた。
「何にせよ…私はお前を選んだんだ。だから、彼女との事は白紙にする。彼女には…ふさわしい男性を紹介しよう。彼女の様な女性には…その方がいい」
「…そう」
「さあ、心配はやめて…これからの日々の事を考えよう。これからの…幸せな日々をな」
「フランツ…」
 二人は唇を深く合わせると、夜を共に過ごした――

 二人の突然の復縁に、国民も、フランツの親族も激怒した。特にマルヴィーダの嘆きは大きなものだった。しかし今度の二人は怯まなかった。彼女は公的な場所で『愛する存在と一緒にいたいと思う事は、罪でしょうか』と言い切り、その言葉で国民は目が覚めたかの様に、残虐超人と呼ばれる男を怯まず愛する彼女の強さと彼に対する愛の深さに気付き、段々と二人を認める風潮が強くなってきた。親族の間では彼女を認めまいとする風潮が強かったが、彼女がハンスからしきたりを教えてもらうとすぐ覚えてしまう程の聡明さ、身のこなしの優雅さ、使用人一人一人への細やかな心配りを欠かさない優しさ、何よりも女主人としての風格に圧され、何も言えなくなった。