そして五月の爽やかな日差しの中で二人は婚礼をあげ、それと入れ替わるかの様に、マクシミリアンはひっそりとこの世を去った。彼女に『これからもあなたのピアノを私に聴かせてくれた様に、心を込めて少しでも多くの人々に聴かせてあげなさい』と言い残して――彼女はその遺志を受け取り演奏を続けると言い、彼もそれを喜んだ。彼女のピアノは安らぎと幸せの旋律。だからこそ、彼女のピアノで少しでも救われる人間がいて欲しかった。自分の様に――そして結婚後、更に彼女のピアノは冴え、結果的には彼女の結婚は良かった事と認められ、その思いは報われる事になった。そしてピアニストとして、また女主人として忙しい日々を送っていた彼女だったが、それからたった4ヵ月後の9月のコンサートを最後に自分は引退する、と宣言した。記者の質問に彼女は『妊娠をした』と答え、子どもが生まれてからでも復帰は可能だという言葉には『少しでも愛する存在の傍にいたいから』と言うのみだった。そして、件のコンサートが終わってから彼女は床に伏す事が多くなった。彼は単につわりが酷いせいだと思っていたがそうではなかった。彼女は生来の体の弱さに加え、今までの苦労がたたって心臓がかなり弱っており、妊娠が更にそれを悪化させていたのだ。それを医師から告白されたハンスは彼女へ子どもは諦める様に説得したが、彼女は静かに首を振り『私はあの人を愛した証を残したい。私はもう長くないでしょうから』と言い、この事は夫には話さない様にと口止めをした。しかしどこから漏れたのか、彼の耳にその事が入ってしまった。彼も子どもを諦める様に説得した。しかし彼女は激しい口調でそれを拒否した。そして彼女は床に伏し、彼はそんな彼女が痛々しくて見舞いにもいけない状態が続いた。二人の親友は何とかして二人を元の仲睦まじい二人に戻そうと必死だったが、どうにもならなかった。しかし転機が訪れた。弱った体であったのに、彼女が再びピアノに向かい始めたのだ。生命を振り絞って生まれ来る子どものために音を紡ぎ続ける彼女に、彼は目が覚める思いだった。そうだ、彼女を守り、支える事が自分のすべき事だった――そして彼は彼女の部屋へ毎日通い、彼女を労わる様になった。彼女も彼の心を受け入れ、絶対に子どもと二人で生きてみせると誓った。その言葉通り、そこから彼女は驚く程回復していき、臨月になる頃にはすっかり彼女は健康を取り戻した様に見え、そして4月末に彼女は健康な男の子を生み、自らも健康なままであった。
「ありがとう…アマーリエ。元気な子を産んでくれて」
「いいえ…私こそ無理を言って…ごめんなさい」
「いいんだ。結果としてこうして無事に済んだのだから…そうだ、名前をつけなければな」
 その言葉に、アマーリエは悪戯っぽく微笑むと、口を開く。
「もうね…私が決めてあるの」
「…どんな名前だ?」
「…クラウス」
「アマーリエ」
 彼女の『悪戯』にフランツは絶句する。しかし彼女はくすくすと笑いながら、優しく言葉を重ねる。
「だって、この名前が私とあなたを結び付けてくれたのよ?…だから…この名前にしたいの」
「…」
 フランツはしばらく考え込んでいたが、やがてふっと笑い、口を開く。
「そうだな…それがいい」
「ありがとう…フランツ」

 彼女の出産後、ケーテ、カタリーナ、ゲオルク、ローザなどが次々に祝いに訪れる。そして、ローザが来た日は偶然にもクラウス夫妻とその息子であるエルンストも来ていて、アマーリエの部屋での華やかなお茶会となった。
「アマーリエ、おめでとう。可愛い男の子じゃない」
「ありがとう、姉さん」
「おめでとうございます、奥様。お元気になられて何よりです」
「ありがとう、イザベルさん。エルンスト君も元気でいいですね。これからは母親の先輩としても、よろしくお願いします」
「はい」
「ねぇアマーリエ、こんな時に何だけど…お願いしていい?」
「何?姉さん」
「久し振りに…あんたのピアノを聴かせて」
「ええ」
 アマーリエは微笑んで頷くと、部屋にあったピアノの蓋を開け弾き語りをする。その曲は、フランツへ向けたあの恋歌だった。

――浅い眠りに浮かぶのは
私を照らすあなたの微笑み
叶わぬ望みを胸に抱き
私は歌う恋の歌
風に乗せればこの歌は
あなたの耳に届くでしょうか
私の想いはどうすれば
あなたに伝えられるでしょうか――

「…素敵ね」
「そうだな」
「…」
 フランツはじっと聴いていたが、やがておもむろに口を開く。
「アマーリエ、一音下げて…続けてくれ」
「え?」
 フランツの言葉に戸惑いながらも、彼女は言われた通りにする。と、つややかなテノールの声で、フランツが今度は歌い始めた。

――かすかに聞こえる囁きは
我を導く君の歌声
変わらぬ想い胸に秘め
我はさまよう恋の闇
この白き花の言葉借り
君に伝えん我が想い
果て無き闇を切り裂いて
我たどり着かん君が元――

「あなた…」
 最後の一音を弾き終わるやいなや、アマーリエはフランツの胸に飛び込んだ。彼もそんな彼女をしっかりと抱き締めている。それを見ていたローザが不意に口を開いた。
「いいわね~、やっぱり夫婦って。…あたしも子どもができた事だし、そろそろ落ち着こうかしら」
「何ぃ!?」
 ローザの爆弾発言にテオドールが驚いた声をあげ、赤子のクラウスと幼児のエルンスト以外全員の視線が二人に集まる。確実に彼女の腹の子の父親はテオドールだという事は、本人もここにいる全員も分かっているからだ。しばらくテオドールはしどろもどろしていたが、やがて彼女の手を引き、声を上げる。
「…来い!」
 そうして一旦退場した二人を見送りながら、クラウスはお茶を飲みつつ呑気に口を開く。
「…まあ、これで皆収まる所に収まる…という事で」
「でも…大丈夫かしら、かなりテオドールさん慌ててたわ。あなた…心配だから様子を見に行ってあげて」
「ああ。クラウスも来い」
 アマーリエの言葉に、フランツは頷くとクラウスを連れて部屋を出て行き、しばらくして明るい笑顔で帰ってくる。一同は幸せが倍増した事を心底喜び、そこからはアマーリエのピアノとローザの歌が陽気に響いていった。しかしこの時が結果最高の幸せの時になったとは、その時は誰も思わなかった――