それからドイツの政情はどんどん悪化し、8月には東西ドイツを隔てるベルリンの壁ができ、アマーリエは姉や親友のカタリーナに会う事が叶わなくなった。そしてある日、彼女に一通の短い手紙が届く。カタリーナからで、『このままだと自分の音楽が政治に利用される。そうならないうちにドイツを出てまずフランスに行く。どこに落ち着くかはまだ決めていないけれど、また会う時までどうか元気で』と書かれていた。彼女はカタリーナの音楽に対する姿勢を受け取り、幾度となく復帰を要請してきた政府に対しては一貫して拒否を続けた。その代わり、孤児院や病院、そして何より自分の家族には愛を降り注ぐかの様にその旋律を降り注ぐ事を惜しまなかった。そうして一年程過ぎた頃から、また彼女は床に伏す事が多くなった。彼女はそれでも精力的に活動を続けた。しかし日に日に弱っていくのが誰の目から見ても分かり、その内、床から出られなくなる。彼女が寝付いてからは、フランツは職務の合間を縫って彼女の床へと足を運んだ。
「今日は…楽か?」
「ええ…少しは気分がいいわ」
 やつれ、顔色も良くないのに、以前床に伏した時とは違い、その蒼みがかった緑の瞳の輝きが失われる事はなかった。フランツが来る度に、アマーリエはその輝く瞳で最高の微笑みを見せて彼を出迎える。それが彼女にできる最後の事だと、もうお互いに察していた。彼女は疲れた様な弱く小さな声で彼に問う。
「ねえ…ぼうやは…元気?」
「ああ、イザベルが世話をしてくれている。元気で…言葉も大分出る様になった」
「ごめんなさいね…本当なら、私がちゃんと育てなきゃいけないのに…」
「いいんだ。それよりも一日も早く元気になって、元気な顔をクラウスに見せろ」
「…そうね。ぼうやには…こんな顔は、見せられないものね…」
「アマーリエ…」
「ごめんなさい、眠くなったわ…眠っていい…?」
「ああ…ゆっくり眠れ…付いていてやる」
「…ありがとう、あなた。…愛してるわ…」
 それが最後の言葉だった。アマーリエは眠り込んだと思うと、みるみる顔から色を失い、冷たくなっていく。フランツは慌てて医者を呼び、救急処置をした。しかし彼女はその甲斐もなく、そのまま息を引き取った。苦しまず、愛する者に看取られ逝ったのがせめてもの救いだと親友達は彼を宥めたが、彼は半狂乱になり、憔悴し、彼女の葬儀も取り仕切れない程だった。そしてここぞとばかりに親族の恨みが噴出し、彼女の墓は当主夫人だというのに一族の墓地の外れにひっそりとそのたたずまいを見せるのみとなった。そして彼女の死で心を壊した彼は、彼女の記憶を封印するかの様に、彼女の部屋に鍵をかけた。しかし、どこかに想いを残していたのか、彼女が病床についても肌身離さず持っていた時計は、そのまま彼のものとなった――