4月半ばの夕刻に近い午後の小田原。葉月と弥生、そして彼女達が誘いをかけて話に乗った三太郎と義経は、小田原駅から山へと向かう石段を登っていた。今日は試合がなく、翌日もドームなので彼女達は小田原見物がてら、彼女達の高校時代の部活訪問にそれぞれ付き合っている男性陣を誘ったのだ。土井垣は残念にも監督の仕事があるため参加できず、若菜は市役所の仕事が終わってから合流するという事で今は葉月と弥生と三太郎と義経という異色カルテットで街を見物していた。
「…それにしても、ヒナが微笑さんとホントにくっつくとは思ってなかったわ」
「そう?」
「確かに前からいい雰囲気は出してたけど、こう実際そうなりました、って来ると現実感がさ」
「いいじゃん。俺達も幸せ、宮田さん達も幸せ。でも幸せ一番は義経だぜ~?皆に祝福されてさ。俺なんか弥生さんとの事がばれたら、皆に恨まれちまって」
「…協定を破っていたお前が悪いんだろう。人徳の差だ」
「ちぇ~、からかいがいないの」
そんな風に賑やかに動物園や併設の小さな遊園地や城内の資料館や、散りかけの桜からさつきに移る季節の自然模様を楽しんで時を過ごした後、大体学校が放課後になった頃を見計らって学校へ向かっている最中なのだ。彼女達が登っている間にも、この石段では高校生らしい集団が上りのダッシュを繰り返している。それを見た三太郎は感心した様に口を開く。
「ふえ~、こんな練習してんだ。どこの部なの弥生さん」
「ああ、あれは顧問の先生からすると陸上部。ここの通称『百段坂』のダッシュはこの部の名物よ」
「ほう…いい心がけだ。野球部はどうなんだ?宮田さん」
「野球部は割合のんびりしながら密度の濃い練習してるって聞いた事ありますけど、あんまり関わってなかったから、ちょっと分かりません。すいません」
「いや…分からないならいいんだ。後でこっそり覗いてみよう」
「でもホントにいいの?俺達が学校内に紛れ込んでも」
心配そうな三太郎の言葉に、葉月がにっこり笑って応える。
「だいじょぶですよ。うちの学校OBはもちろん、近所の人達も平気で犬の散歩とかで入ってきますから」
「しかし…この物騒な昨今、そんなに無防備でいいのか?」
「割合小田原ってみんな鍵閉めたら怒る位のんびりしてる反面、近所のチームワークも古き良き田舎って感じに硬いですからね。不審な動きしてる人がいたら一発で見付かって要注意モードになりますから。だいじょぶですよ」
「そうね、はーちゃん」
「何なんだその根拠のない自信は…」
「…まあ君達くらいは俺達が守ってやれるが、君達の後輩までは面倒見られんぞ」
「それはだいじょぶです。ここに入ってまず教わるのは簡単な護身術ですから。不審者じゃなくても野性のサルとかに襲われるって結構あるんで、そのガードのために」
「不審者よりもサルよけが先かよ…」
葉月の邪気のない言葉に三太郎は頭を抱え、義経は苦笑して念を押す。
「しかし今日は監督が仕事で来れなかったし、守れなかったら俺達は監督に大目玉だから、自重してくれよ」
「はい、分かってますよ」
「逆に、土井垣さん来なくってあたしは安心してるんだけどね」
「どういう事?弥生さん」
「多分、行けば分かるわ…じゃあ、入りましょうか」
そう言うと四人は常に開放状態だと一目でわかる鉄扉を通り抜け、木が生い茂る道から校舎のあるロータリーへと足を運ぶ。ロータリーへ来た時に弥生が男二人に問いかける。
「どうする?本当に野球部見て行く?だったら先にグラウンド案内するけど」
「そうだな~ちょっと覗いてみたいな…弥生さん、頼む」
「オッケーよ。じゃあ先に」
そう言うと葉月と弥生はロータリーの隅にある石段に二人を案内し、登らせる。そこにあるグラウンドでは野球部員が守備練習をしていた。決してうまいとは言えないが皆野球が心底から好きで、だからこそ一生懸命練習しているのが分かる。それを見た三太郎が感心した様に口を開く。
「へぇ。…無名校だけどみんないい顔して野球してるな」
「うちの場合、土井垣さんやお二方と違って甲子園は『行けたらもうけもの』とりあえずは勝ち負け以前の野球の奥深さを精一杯楽しんだ上で一勝でも勝てればいいっていうスタンスみたいですからね。どっちかって言うと文科系の方が巾利かせてますし」
「その中でも君達の演研は特出してるって訳か…すごい所に入っていたんだな、宮田さん達は」
「すごいのかどうか分かりませんけどね、あのノリは好き嫌い分かれる所ですよ」
「ふぅん…じゃあその部活に行かせてもらおうかな…っと、ばれたみたいだな」
立ち去ろうとした四人(というより義経と三太郎)に練習していた野球部員達が気付き、一斉に駆け寄って来ると、口々に熱っぽい口調で口を開く。
「東京スーパースターズの微笑選手と義経選手ですよね!OBでもないのに何でここへ?」
「嬉しいな~!生でプロ野球選手が見られるなんて!」
「サインなんて贅沢言いません、握手だけでいいからして下さい!」
「ああ」
「喜んで」
二人は少年達の純粋な気持ちに打たれて快く握手を交わしていく。少年達は熱っぽい表情で握手を交わし、満面の笑顔を二人に見せる。それが更に二人を喜ばせた。そうしてひと段落ついた時、弥生が二人に声を掛ける。
「じゃあ、今度はメインのうちの方に来てもらわないと。練習終わっちゃいますよ」
「あ、そうだな。宮田さん、弥生さんごめん」
「いいのよ。未来の後輩がここから出るかもしれないんだから。しっかり応援してあげなさい」
「それもそうだ。皆、頑張れよ!」
「何事も精進が大事だ。それを忘れない様にな」
「はい!…ところで」
「何だ?」
「そこの女性二人は今の言葉とここ知ってるって事は、OBなんでしょうけど…お二人の恋人なんですか?」
「あ…いや…それは…」
「あたしはOBはイエス、お付き合いはノー。親しい友人ではあるけどね」
「俺は彼女と付き合ってる。でもマスコミには内緒な」
「そういう事。でも皆、ゴシップ洗ってる暇あったら練習しなさいな。野球の奥深さ楽しむのもいいけど、たまには準決勝位まで勝ち残ってよ。あたし達OBは楽しみにしてるんだからね」
「はいはい…人の恋路の邪魔はしませんよ。俺達は。じゃあありがとうございました!」
少年たちの問いに、義経は狼狽し、葉月はあっさり答え、三太郎は弥生の両肩を抱き答え、弥生は言い聞かせる様に言葉を紡ぐ。その四種の表情に少年達は笑いながら応えると帽子を取って一礼し、グラウンドに戻っていった。四人はそれを微笑んで見送ると、弥生と葉月の案内で校舎の中でも一番奥まった古びた校舎へと足を運ぶ。と、下にある教室から丁寧に指導する声が聞こえてきた。
「もっとゆっくりやって大丈夫だ。それからオーバーもいいが粋を忘れないようにな」
「はい」
「でも中学の落研で変な癖がついてこなかったのは幸いだぞ。これからもちゃんと落研や、できるなら本場の寄席にも通ってもっと自然に、流れる様な粋も覚えろ。いいな」
「はい、ありがとうございます。古田さん」
「古田君、お久し振り。高齢者班は彼だけ?」
葉月はスリッパに履き替えて眼の前の教室に入ると、そこにいた小柄な青年に声を掛ける。『古田』と呼ばれた青年は、笑って葉月に応える。
「ああ、葉月さん。久し振りです。いえ、あと高齢者班は2人います。今日は一人はマジック研究会、もう一人は筝曲部に稽古を頼んで稽古してもらってます。落語やってる彼…五十嵐博君は丁度今日は俺が来たんで俺が見てたって訳で」
「そう。…五十嵐君…ね。どう?古田君厳しいでしょう」
葉月の問いに『五十嵐』と呼ばれた少年は苦笑しながら答える。
「ええ、厳しいです。あの花見のうまいご馳走に騙されたかなぁ…ってちょっと思いますよ」
「それがあたし達の手だからね~でも言いたい事があったらちゃんとOBでも言っていいのよ。厳しくても風通しがいい事があたし達のポリシーだから。溜め込んで辞めるってのはなしよ」
「はい。ありがとうございます」
弥生の悪戯っぽいが優しい言葉に、五十嵐は少し肩の力が抜けた様な笑みを見せた。それを見て古田は笑うと、葉月と弥生に問い掛ける。
「葉月さんも、弥生さんも部活の様子見に来たんですか?」
「ええ、児童班は相変わらず上でしょ?行かせてもらうわね」
「そういえば今日は来てるOB古田君だけ?」
弥生の問いに、古田はさらりと答える。
「いいえ。御館さんが顔出して児童班見てくれてます」
「ああ、柊来てるんだ。じゃあ早めに上がらないと気の弱い部員は怯えちゃうわね」
「そうですね…御館さんはすごく厳しいですから。葉月さん、フォローお願いします」
「ええ。じゃああたし達は上がらせてもらうわ。二人とも、頑張ってね」
「はい」
そう言うと四人は教室を出て階段を上っていく。上りながら三太郎は弥生に問い掛ける。
「何でフォローは宮田さんだけに頼んだの?しかも『柊』って…随分親しそうだけど」
三太郎の問いに、弥生は苦笑しながら答える。
「それは…行けば分かるし、行ったら教えるわ」
「…?」
弥生の言葉の意味が分からず、三太郎もやり取りを聞いていた義経も首を捻る。そうして階段を上がり、最上階の教室に辿り着くと、教室の窓という窓に暗幕が張られ、音楽と録音されたセリフらしき声が聞こえて来た。それを聞いた葉月と弥生はそれぞれに口を開く。
「…今、影絵の最中みたいね。ぱっと入らなきゃ」
「そうね…三太郎君、義経君、ドア開けたらすぐ入って」
「え?何で?」
「いいから…じゃあ開けるわよ」
そうして弥生はほんの少しだけドアを開け、彼らを入れようとしたが、三太郎と義経は入るのに手間取って光が入口から室内に漏れてしまう。と、教室の中から怒鳴り声が聞こえて来た。
「馬鹿野郎!光を入れるんじゃねぇ!」
「ごめん、柊…ちょっと初見のお客様だから許してあげて」
何とか二人を詰め込んで弥生と葉月も中に入ると、そこに座っていた長身の男性に葉月が申し訳なさそうな口調で言葉を紡ぐ。彼女の姿に気付いた『柊』と呼ばれた男性はふっと柔らかい表情になって申し訳なさそうに言葉を返した。
「ああ、葉月と…弥生ちゃんか。すまねぇ…ちょっと気を張りすぎてた。で、ついでにいるのはスターズの微笑と義経だな。こっちが一段落するまでとりあえずの挨拶は後だ。一緒に見てろ」
「はあ…」
「はい…」
先程の剣幕とは違う気さくで温和な様子に二人は驚きながらも言う通りにする。暗幕の理由は演目の影絵で、『赤いろうそくと人魚』。大きなスクリーンにライト越しの背景と人形が映され、それは綺麗だった。溜息をつきながら二人は眺めていたが、男性はどんどん厳しく注意をしていく。
「…美樹ちゃん、人形が傾いてる!重いだろうが耐えろ!…伊藤!歩行が跳ねてるぞ!…村田!スクリーン切るんじゃねぇ!スクリーンはたけぇんだからな!」
と、その時スクリーンに人の影が大きく映る。それを見た男性は更に声を荒げた。
「誰だ!明かりの前はしゃがめ!基礎中の基礎だろうが!」
男性の様子に葉月は宥める様に彼に声をかけた後、表で見ていた生徒に声を掛ける。
「柊、そんなに怒ったら皆が可哀想だよ。慣れてない新入生かもしれないでしょ?」
「あ…まあ、そうだが…」
「涼子ちゃん、演出はあなたなの?」
「あ…はい。すいません葉月さん、こんなボロボロで…」
「いいのよ。影絵はむつかしいから。じゃあ悪いけどちょっと止めて」
「はい…皆、一旦止めるよ」
葉月は『涼子』と呼んだ女生徒に影絵の進行を止めてもらい、スクリーンの向こうに声を掛ける。
「今明かりの前横切ったのは新入生?声出していいから答えて」
「あ…はい…そうです」
「影絵はデリケートよ。余計な影が映ったらアウトなの。これからは気をつけて。それから二年生と三年生は新入生にちゃんと最低限の心得を伝えてから中に入れてね」
「はい…すいません」
「いいのよ。これから気をつけてくれれば。こっちも怒り過ぎちゃってごめんなさいね」
「ああ、いえ…」
恐縮している様子を見せているスクリーンの中の人間の様子を察し、葉月は男性に少し咎める様な口調で言葉を掛ける。
「柊、厳しくするのもいいけど、厳し過ぎるのは駄目だよ。それで怖がって毎年何人部員なくしてるの?部員がある程度いないと楽しくない部活なんだから、そこんとこ考えてよね」
「悪ぃ…葉月。つい熱が籠っちまうんだよ」
「まあ、柊のそういうとこがあたしも好きなんだけどね」
「ありがとよ」
そう言うと男性は葉月の頭をガシガシと撫でる。その様子が三太郎と義経には不思議さと何故かは分からないがある種の不安を呼び起こす。しかし男性は気付いていない様で、そうした後明るい声で部員に声を掛ける。
「よ~し、今日はOBや客が大量に来たし、思いっきり怒っちまったから、挨拶と詫びがてら『ジェノヴェール』に終わったら連れてってやるよ。部員は俺がおごる。OBと客は金があるんだから申し訳ねぇが個人負担だ。だから早めに部活を終わらせてとっとと行こうぜ?…な、涼子ちゃん」
「ありがとうございます…さあ、じゃあそういう事でもう一頑張りしましょ?皆」
「はい!」
「…それにしても、ヒナが微笑さんとホントにくっつくとは思ってなかったわ」
「そう?」
「確かに前からいい雰囲気は出してたけど、こう実際そうなりました、って来ると現実感がさ」
「いいじゃん。俺達も幸せ、宮田さん達も幸せ。でも幸せ一番は義経だぜ~?皆に祝福されてさ。俺なんか弥生さんとの事がばれたら、皆に恨まれちまって」
「…協定を破っていたお前が悪いんだろう。人徳の差だ」
「ちぇ~、からかいがいないの」
そんな風に賑やかに動物園や併設の小さな遊園地や城内の資料館や、散りかけの桜からさつきに移る季節の自然模様を楽しんで時を過ごした後、大体学校が放課後になった頃を見計らって学校へ向かっている最中なのだ。彼女達が登っている間にも、この石段では高校生らしい集団が上りのダッシュを繰り返している。それを見た三太郎は感心した様に口を開く。
「ふえ~、こんな練習してんだ。どこの部なの弥生さん」
「ああ、あれは顧問の先生からすると陸上部。ここの通称『百段坂』のダッシュはこの部の名物よ」
「ほう…いい心がけだ。野球部はどうなんだ?宮田さん」
「野球部は割合のんびりしながら密度の濃い練習してるって聞いた事ありますけど、あんまり関わってなかったから、ちょっと分かりません。すいません」
「いや…分からないならいいんだ。後でこっそり覗いてみよう」
「でもホントにいいの?俺達が学校内に紛れ込んでも」
心配そうな三太郎の言葉に、葉月がにっこり笑って応える。
「だいじょぶですよ。うちの学校OBはもちろん、近所の人達も平気で犬の散歩とかで入ってきますから」
「しかし…この物騒な昨今、そんなに無防備でいいのか?」
「割合小田原ってみんな鍵閉めたら怒る位のんびりしてる反面、近所のチームワークも古き良き田舎って感じに硬いですからね。不審な動きしてる人がいたら一発で見付かって要注意モードになりますから。だいじょぶですよ」
「そうね、はーちゃん」
「何なんだその根拠のない自信は…」
「…まあ君達くらいは俺達が守ってやれるが、君達の後輩までは面倒見られんぞ」
「それはだいじょぶです。ここに入ってまず教わるのは簡単な護身術ですから。不審者じゃなくても野性のサルとかに襲われるって結構あるんで、そのガードのために」
「不審者よりもサルよけが先かよ…」
葉月の邪気のない言葉に三太郎は頭を抱え、義経は苦笑して念を押す。
「しかし今日は監督が仕事で来れなかったし、守れなかったら俺達は監督に大目玉だから、自重してくれよ」
「はい、分かってますよ」
「逆に、土井垣さん来なくってあたしは安心してるんだけどね」
「どういう事?弥生さん」
「多分、行けば分かるわ…じゃあ、入りましょうか」
そう言うと四人は常に開放状態だと一目でわかる鉄扉を通り抜け、木が生い茂る道から校舎のあるロータリーへと足を運ぶ。ロータリーへ来た時に弥生が男二人に問いかける。
「どうする?本当に野球部見て行く?だったら先にグラウンド案内するけど」
「そうだな~ちょっと覗いてみたいな…弥生さん、頼む」
「オッケーよ。じゃあ先に」
そう言うと葉月と弥生はロータリーの隅にある石段に二人を案内し、登らせる。そこにあるグラウンドでは野球部員が守備練習をしていた。決してうまいとは言えないが皆野球が心底から好きで、だからこそ一生懸命練習しているのが分かる。それを見た三太郎が感心した様に口を開く。
「へぇ。…無名校だけどみんないい顔して野球してるな」
「うちの場合、土井垣さんやお二方と違って甲子園は『行けたらもうけもの』とりあえずは勝ち負け以前の野球の奥深さを精一杯楽しんだ上で一勝でも勝てればいいっていうスタンスみたいですからね。どっちかって言うと文科系の方が巾利かせてますし」
「その中でも君達の演研は特出してるって訳か…すごい所に入っていたんだな、宮田さん達は」
「すごいのかどうか分かりませんけどね、あのノリは好き嫌い分かれる所ですよ」
「ふぅん…じゃあその部活に行かせてもらおうかな…っと、ばれたみたいだな」
立ち去ろうとした四人(というより義経と三太郎)に練習していた野球部員達が気付き、一斉に駆け寄って来ると、口々に熱っぽい口調で口を開く。
「東京スーパースターズの微笑選手と義経選手ですよね!OBでもないのに何でここへ?」
「嬉しいな~!生でプロ野球選手が見られるなんて!」
「サインなんて贅沢言いません、握手だけでいいからして下さい!」
「ああ」
「喜んで」
二人は少年達の純粋な気持ちに打たれて快く握手を交わしていく。少年達は熱っぽい表情で握手を交わし、満面の笑顔を二人に見せる。それが更に二人を喜ばせた。そうしてひと段落ついた時、弥生が二人に声を掛ける。
「じゃあ、今度はメインのうちの方に来てもらわないと。練習終わっちゃいますよ」
「あ、そうだな。宮田さん、弥生さんごめん」
「いいのよ。未来の後輩がここから出るかもしれないんだから。しっかり応援してあげなさい」
「それもそうだ。皆、頑張れよ!」
「何事も精進が大事だ。それを忘れない様にな」
「はい!…ところで」
「何だ?」
「そこの女性二人は今の言葉とここ知ってるって事は、OBなんでしょうけど…お二人の恋人なんですか?」
「あ…いや…それは…」
「あたしはOBはイエス、お付き合いはノー。親しい友人ではあるけどね」
「俺は彼女と付き合ってる。でもマスコミには内緒な」
「そういう事。でも皆、ゴシップ洗ってる暇あったら練習しなさいな。野球の奥深さ楽しむのもいいけど、たまには準決勝位まで勝ち残ってよ。あたし達OBは楽しみにしてるんだからね」
「はいはい…人の恋路の邪魔はしませんよ。俺達は。じゃあありがとうございました!」
少年たちの問いに、義経は狼狽し、葉月はあっさり答え、三太郎は弥生の両肩を抱き答え、弥生は言い聞かせる様に言葉を紡ぐ。その四種の表情に少年達は笑いながら応えると帽子を取って一礼し、グラウンドに戻っていった。四人はそれを微笑んで見送ると、弥生と葉月の案内で校舎の中でも一番奥まった古びた校舎へと足を運ぶ。と、下にある教室から丁寧に指導する声が聞こえてきた。
「もっとゆっくりやって大丈夫だ。それからオーバーもいいが粋を忘れないようにな」
「はい」
「でも中学の落研で変な癖がついてこなかったのは幸いだぞ。これからもちゃんと落研や、できるなら本場の寄席にも通ってもっと自然に、流れる様な粋も覚えろ。いいな」
「はい、ありがとうございます。古田さん」
「古田君、お久し振り。高齢者班は彼だけ?」
葉月はスリッパに履き替えて眼の前の教室に入ると、そこにいた小柄な青年に声を掛ける。『古田』と呼ばれた青年は、笑って葉月に応える。
「ああ、葉月さん。久し振りです。いえ、あと高齢者班は2人います。今日は一人はマジック研究会、もう一人は筝曲部に稽古を頼んで稽古してもらってます。落語やってる彼…五十嵐博君は丁度今日は俺が来たんで俺が見てたって訳で」
「そう。…五十嵐君…ね。どう?古田君厳しいでしょう」
葉月の問いに『五十嵐』と呼ばれた少年は苦笑しながら答える。
「ええ、厳しいです。あの花見のうまいご馳走に騙されたかなぁ…ってちょっと思いますよ」
「それがあたし達の手だからね~でも言いたい事があったらちゃんとOBでも言っていいのよ。厳しくても風通しがいい事があたし達のポリシーだから。溜め込んで辞めるってのはなしよ」
「はい。ありがとうございます」
弥生の悪戯っぽいが優しい言葉に、五十嵐は少し肩の力が抜けた様な笑みを見せた。それを見て古田は笑うと、葉月と弥生に問い掛ける。
「葉月さんも、弥生さんも部活の様子見に来たんですか?」
「ええ、児童班は相変わらず上でしょ?行かせてもらうわね」
「そういえば今日は来てるOB古田君だけ?」
弥生の問いに、古田はさらりと答える。
「いいえ。御館さんが顔出して児童班見てくれてます」
「ああ、柊来てるんだ。じゃあ早めに上がらないと気の弱い部員は怯えちゃうわね」
「そうですね…御館さんはすごく厳しいですから。葉月さん、フォローお願いします」
「ええ。じゃああたし達は上がらせてもらうわ。二人とも、頑張ってね」
「はい」
そう言うと四人は教室を出て階段を上っていく。上りながら三太郎は弥生に問い掛ける。
「何でフォローは宮田さんだけに頼んだの?しかも『柊』って…随分親しそうだけど」
三太郎の問いに、弥生は苦笑しながら答える。
「それは…行けば分かるし、行ったら教えるわ」
「…?」
弥生の言葉の意味が分からず、三太郎もやり取りを聞いていた義経も首を捻る。そうして階段を上がり、最上階の教室に辿り着くと、教室の窓という窓に暗幕が張られ、音楽と録音されたセリフらしき声が聞こえて来た。それを聞いた葉月と弥生はそれぞれに口を開く。
「…今、影絵の最中みたいね。ぱっと入らなきゃ」
「そうね…三太郎君、義経君、ドア開けたらすぐ入って」
「え?何で?」
「いいから…じゃあ開けるわよ」
そうして弥生はほんの少しだけドアを開け、彼らを入れようとしたが、三太郎と義経は入るのに手間取って光が入口から室内に漏れてしまう。と、教室の中から怒鳴り声が聞こえて来た。
「馬鹿野郎!光を入れるんじゃねぇ!」
「ごめん、柊…ちょっと初見のお客様だから許してあげて」
何とか二人を詰め込んで弥生と葉月も中に入ると、そこに座っていた長身の男性に葉月が申し訳なさそうな口調で言葉を紡ぐ。彼女の姿に気付いた『柊』と呼ばれた男性はふっと柔らかい表情になって申し訳なさそうに言葉を返した。
「ああ、葉月と…弥生ちゃんか。すまねぇ…ちょっと気を張りすぎてた。で、ついでにいるのはスターズの微笑と義経だな。こっちが一段落するまでとりあえずの挨拶は後だ。一緒に見てろ」
「はあ…」
「はい…」
先程の剣幕とは違う気さくで温和な様子に二人は驚きながらも言う通りにする。暗幕の理由は演目の影絵で、『赤いろうそくと人魚』。大きなスクリーンにライト越しの背景と人形が映され、それは綺麗だった。溜息をつきながら二人は眺めていたが、男性はどんどん厳しく注意をしていく。
「…美樹ちゃん、人形が傾いてる!重いだろうが耐えろ!…伊藤!歩行が跳ねてるぞ!…村田!スクリーン切るんじゃねぇ!スクリーンはたけぇんだからな!」
と、その時スクリーンに人の影が大きく映る。それを見た男性は更に声を荒げた。
「誰だ!明かりの前はしゃがめ!基礎中の基礎だろうが!」
男性の様子に葉月は宥める様に彼に声をかけた後、表で見ていた生徒に声を掛ける。
「柊、そんなに怒ったら皆が可哀想だよ。慣れてない新入生かもしれないでしょ?」
「あ…まあ、そうだが…」
「涼子ちゃん、演出はあなたなの?」
「あ…はい。すいません葉月さん、こんなボロボロで…」
「いいのよ。影絵はむつかしいから。じゃあ悪いけどちょっと止めて」
「はい…皆、一旦止めるよ」
葉月は『涼子』と呼んだ女生徒に影絵の進行を止めてもらい、スクリーンの向こうに声を掛ける。
「今明かりの前横切ったのは新入生?声出していいから答えて」
「あ…はい…そうです」
「影絵はデリケートよ。余計な影が映ったらアウトなの。これからは気をつけて。それから二年生と三年生は新入生にちゃんと最低限の心得を伝えてから中に入れてね」
「はい…すいません」
「いいのよ。これから気をつけてくれれば。こっちも怒り過ぎちゃってごめんなさいね」
「ああ、いえ…」
恐縮している様子を見せているスクリーンの中の人間の様子を察し、葉月は男性に少し咎める様な口調で言葉を掛ける。
「柊、厳しくするのもいいけど、厳し過ぎるのは駄目だよ。それで怖がって毎年何人部員なくしてるの?部員がある程度いないと楽しくない部活なんだから、そこんとこ考えてよね」
「悪ぃ…葉月。つい熱が籠っちまうんだよ」
「まあ、柊のそういうとこがあたしも好きなんだけどね」
「ありがとよ」
そう言うと男性は葉月の頭をガシガシと撫でる。その様子が三太郎と義経には不思議さと何故かは分からないがある種の不安を呼び起こす。しかし男性は気付いていない様で、そうした後明るい声で部員に声を掛ける。
「よ~し、今日はOBや客が大量に来たし、思いっきり怒っちまったから、挨拶と詫びがてら『ジェノヴェール』に終わったら連れてってやるよ。部員は俺がおごる。OBと客は金があるんだから申し訳ねぇが個人負担だ。だから早めに部活を終わらせてとっとと行こうぜ?…な、涼子ちゃん」
「ありがとうございます…さあ、じゃあそういう事でもう一頑張りしましょ?皆」
「はい!」