結局テオドールたっての願いで式は今の東側の情勢がもう少し落ち着いてから、そして結婚後のテオドールは参謀を続けつつも東側の親衛隊の指揮を取るという形に決まり、ローザもそれに同意した。しかし彼らを含めたドイツ親衛隊の努力も空しく、情勢は段々と悪化していく。そして8月のある朝――
「大変です!東側がベルリンの国境に壁を作り始めました!」
「何だと!?」
ブロッケンマンの執務室に東側の親衛隊員が駆け込んできた。執務を行っていたブロッケンマンとテオドールは驚いて彼の報告を聞く。
「おそらく亡命が活発化してきたのを恐れ、国民を封じ込めるために作り始めたものと思われます。どう致しましょう。まずは直近の指示をお願い致します」
彼の報告に一瞬テオドールの顔が蒼白になったが、その親衛隊員には気付かれない瞬時に参謀の表情に戻り、冷静な指示を出す。
「まずは、東側の詳細な状況を逐一調べて報告する様に。それから親衛隊員には動揺をせず、引き続き統一のための活動を続ける様指示を頼む。状況が分かり次第、西側からは支援者を派遣する」
「承知致しました」
「では、行ってくれ」
「はい」
親衛隊員が部屋を出て行くと、テオドールは苦悶の表情で拳を握り締め、執務室の机に叩き付けた。
「畜生!何で…何でこうなっちまうんだよ!」
「…」
ブロッケンマンは彼の心中を察して何も言わずにいた。しばらくの沈黙の後、テオドールが落ち着いた頃を見計らって、ブロッケンマンは彼に声を掛ける。
「…国単位で動かれてしまっては、我々も手の出し様がない。統一のための活動は続けるにしろ、今以上に活動は困難になるだろう」
「分かってるよ!そんな事は…良く、分かってるさ…!」
「そこでだ…テオドール、西側の支援者はお前が行け」
「何?」
ブロッケンマンの言葉に、テオドールは驚いた表情で彼を見詰める。ブロッケンマンはテオドールとは裏腹に、平時と同じく感情をあまり見せない表情で言葉を続ける。
「活動が困難になる以上、支援者には相応の実力と求心力がなければならん。その点から言えば、お前が一番適任だろう。だから…お前が行け」
「…」
テオドールはしばらくブロッケンマンを見詰めていたが、やがて参謀としての鋭い表情に戻り、静かに応える。
「…馬鹿野郎、任務に私情を挟むんじゃねぇよ」
「テオドール」
「こんな情勢になっちまったんだ。参謀が当主から離れる訳にはいかねぇだろうが」
「…」
「支援者はリヒャルトが適任だと思う。あいつなら実力も求心力もあるし、冷静に物事に対処できるしな」
「しかし」
「しかしも蜂の頭もねぇ、お前は親衛隊が最高の働きをする事を一番に考えろ。…俺の事なんか考えるな」
きっぱりと言い切るテオドールをブロッケンマンはしばらく見詰めていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「…分かった。では頼む」
「おーよ」
それからテオドールはブロッケンマンの傍を片時も離れず、参謀としての辣腕を振るっていった。壁ができた事で一時混乱していた東側の親衛隊も、壁ができて以後も衰えないブロッケンマンの存在感、西側から派遣されたリヒャルトの手腕、そして何より影に動くテオドールの尽力によって落ち着きを取り戻し、決意も新たにドイツ統一のための活動を始めた。そしていつしか秋から冬へと月日が流れて行きクリスマスイブの深夜、テオドールは親友兼主人の私室に呼び出された。こんな時刻に、しかも私室に呼び出されるのは珍しいと思いつつも部屋を訪れると、そこには呼び出した当人だけでなく彼の妻、そしてもう一人の親友が同席していた。執事であるもう一人の親友はともかく、当主の妻まで同席するのは更に珍しいと思い、彼は呼び出した当の親友兼主人に呼び出した趣旨を問いかける。
「どうしたんだよフランツ、アマーリエまで同席してるなんて。何かあったのか?」
テオドールの問いに問いかけられた当人ではなく、彼の妻がその問いの『答え』を返した。
「実は今、東の方から話が届いて…姉が…産気づいたそうです」
「何だって?…何でそんな情報が入って来るんだよ」
あまりに想定外な呼び出された『理由』にテオドールが混乱していると、もう一人の親友であるクラウスが答える。
「あなたには秘密にしていましたが…ローザの情報も集めてもらう様、私がフランツに頼んでおいたんです。アマーリエに対しての気遣いもありましたが、何よりあなたの方が心配でしてね。…あなたの事ですから超人に国境はないと分かっていても、今の情勢ではローザに会いに行くどころか、考える事すら否定すると思いましたから」
「当たり前だろ?今は任務が大事だ。それに俺と同じ立場の奴なんか、掃いて捨てるほどいる。自分だけ特別扱いにする訳にはいかねぇじゃねぇか」
「それが正論なのだろう。…しかし、今回は私もその正論を曲げさせてもらう。…テオドール、ローザに会いに行け」
「おいフランツ!何血迷ってんだ!」
ブロッケンマンの言葉に、テオドールは声を荒げる。しかしそれにも動ぜず、ブロッケンマンは更に言葉を重ねる。
「お前が何より任務の事を考えてくれる事は、私も感謝している。…しかし、ローザにとってはどうだろう。お前の勝手な言い分で離れたままでいる事が、いい事なのだろうか。せめて彼女にきちんとした約束を交わすためだけにでいい…会いに行ってくれ」
「フランツ…」
「これは当主としての命令ではない。親友としての…そして弟としての頼みだ」
「今回だけは自分の事を考えなさい。あなたのために…そして何よりローザのために」
「私からもお願いします。一度でいいんです…姉に会いに行ってあげて下さい」
三人からの口々の言葉にテオドールはそれぞれの顔を見詰めていたが、やがて決心した様に頷き、真っ直ぐに三人を見詰め口を開いた。
「フランツ、クラウス、アマーリエ、ありがとうよ。…今回だけは言葉に甘えさせてくれ」
病院ではなく彼女の家で出産をするという情報を得ていたので、テオドールは焦る心を抑えて、懐かしい彼女の家を兼ねた彼女が歌う酒場に向かう。母子共に元気で臨月を迎えたとも聞いたが、アマーリエの一件で彼女程の状態でなくても生命を生み出すという事が、文字通り命がけの事なのだと彼は理解していた。もし彼女に何かあったら…そんな不安を振り切る様に彼は壁を越え、かつては行きなれていた道を辿る。そして懐かしいその場所の前へ来た時、やはり懐かしい顔の数々がドアの前に立っているのが見える。テオドールが駆け寄ると、その中の一人が彼に向かって声を掛けてきた。
「テオドール!お前やっと…やっと来てくれたのかよ!」
「ああ、すまなかった。…俺は国境のない超人とはいえ、西にいる。ここへ来ちゃ行けねぇ気がしてたんだ。お前らに殴られても文句は言わねぇ。…だが、今だけはローザに会う事を許しちゃくれねぇか」
テオドールの言葉に、男の一人が静かに言葉を返す。
「許すも許さねぇもねぇよ。…形式的なことはともかく、お前があいつの夫だって事は俺達みんな分かってる。…だからいつだって、お前はローザに会う権利があるさ」
「みんな…すまねぇ」
「だからいいんだって。…でもよ、本当にローザの言う通りだったな」
「え?」
男達の言葉にテオドールは驚いた表情を見せる。その表情にまた違う男が言葉を続ける。
「壁ができてから会いに来られるのに来ねぇお前の事を、しばらくは俺達皆、薄情だって言ってたんだ。でもローザはいつも『あの人の事だもの、来たくても来られないのよ。それに下手に会いに来たら、むしろあたしが追い出すわ』って言ってたんだ」
「ローザ…」
彼女の言葉の裏にある、自分に対する気遣いと彼女自身の決意に対する痛々しさを感じ取り、テオドールは言葉を失う。その時ドアが開き、この酒場の主人でありローザの養い親でもあるゲオルクが、喜びを前面に出して出てきた。
「生まれたぞ!元気な女の子だ。ローザも元気だし万々歳だぜ!」
「やったー!」
ゲオルクの言葉に、その場にいた男達が歓声を上げる。無事に生まれた事を神に感謝しテオドールが胸の前で手を組んで瞑目していると、彼に気付いたゲオルクが声を掛けてきた。
「テオドール…来てくれたんだな。ありがとう」
たった一言なのに、テオドールの心を理解している事が分かるゲオルクの言葉に、テオドールはまた言葉を失う。
「ゲオルク…」
「…さあ、あいつに一番に会ってやってくれ」
「ああ」
テオドールは中へ入ると、一直線にローザのいる部屋へ向かった。ドアの前で一瞬『本当にこれでいいのか』と躊躇ったが、すぐに顔を上げるとドアをノックする。中から疲れた様な口調だが、懐かしくも愛しい女の声で『誰?』という声が聞こえ、テオドールは矢も盾もたまらずドアを開けた。そこには少し疲れた表情だが変わらず…いや、母になり更に美しさを増した愛しい女が、赤子と共に横になっていた。今まで必死に堪えてきた愛しさが溢れ、立ち尽くすテオドールを見て彼女は一瞬驚いた顔を見せたが、やがて嬉しさから来る涙を浮かべ、気を利かせた産婆が席を外したのを見届けると、彼に向かって声を掛けた。
「テオドール…来てくれたの?」
「…ああ」
「ほら…生まれたわよ、可愛い女の子。目の辺りがあなたに似てるわ」
「そうか」
「…ほら、こっちへ来て良く見てちょうだい」
ローザの言葉にテオドールはやっとの事で彼女のベッドの傍へ行き、生まれたばかりの赤子と彼女を交互に見詰め、やがて彼女の額を撫でて、いたわりの言葉を掛ける。
「頑張ったな…ありがとうよ」
「ええ。…あなただって頑張ってたんでしょ?だからあたしも頑張れたわ」
彼女の言葉にテオドールは何も返せず、ただ頭を撫で続ける。そうしてどれだけ時が過ぎただろうか、ローザがふっと口を開いた。
「また…会えなくなるわね」
「…え?」
問い返すテオドールに、ローザは疲れた笑みを見せながらもきっぱりと言う。
「だって、あなたの事だもの。自分だけ特別扱いは許せないでしょ?それにあたしも…そんな事をするのは許さない」
「ローザ…」
「だから…早く大手を振って、あたしにもこの子にも会いに来られるようにして。あたしもそうなる様に、あたしなりの力は尽くすわ」
「…」
「大丈夫、前にも言ったけどあたしにはおじさんも、酒場の皆もいる。それに…この子がいる」
彼女の気丈ながらも哀しげな想いが伝わる言葉に、テオドールは胸が詰まる。何も言えずに彼女を見詰めるテオドールにローザはゆっくりと言葉を続ける。
「…ねぇ、でも一つだけ…お願いしてもいい?」
「何だ?」
「この子の名前を付けてあげて。まずたった一つでいいから…この子に父親の思い出を作ってあげて」
「…ああ」
ローザの言葉にテオドールはしばらく考えると、静かな口調で考えた名前を口にした。
「そうだな。…今日はもうクリスマスになっちまったし、俺が付けてもあんまり神様のご加護は受けられねぇかもしれねぇが…『クリスティーナ』って言うのはどうだ?」
「クリスティーナ…いい名前ね、ありがとう。…良かったわね、クリスティーナ。お父さんに会えて」
クリスティーナ。それはキリストの女性名詞。この名を付けた彼の気持ちと願いを受け取り、彼女は優しく微笑んだ、。
「じゃあ俺はもう行くよ…これ以上いたら、情が移って行けなくなるかもしれねぇから」
「ええ、分かったわ」
「待っててくれよ。俺は必ず…お前達を迎えに来るから」
「もちろんよ。…『行ってらっしゃい』」
ローザの言葉は、自分がいつか必ず戻って来るという確信を持ったものだった。その言葉に返す様に、彼が泣き笑いの表情で彼女に微笑みかけると、彼女も哀しげであるがいつもの気丈な、そして彼への愛を精一杯表した今までで一番美しい表情で微笑んだ。彼が踵を返してドアを閉め外へ出ると、空からはらり、はらりと雪が降ってきていた。連日の雪が積もり積もって、そこへ更に降る雪がまた町を白く染めていく。その風景と先刻の二人の顔を焼き付ける様に立ち止まって空を見上げると、彼は歌姫の無事な出産に喜び溢れる酒場から去って行った。