「…悪いな、三太郎。この間は義経の引越しも手伝ったというのに、俺の所まで手伝いをさせてしまって」
 ここは土井垣のマンション。引越し業者に指示を出しながら、土井垣が申し訳なさそうに葉月の義兄である隆と荷物を運んでいる三太郎に声を掛ける。三太郎はそれに明るく返す。
「いえ、宮田さんが動けないんですから人手が足りないでしょ?それに義経の引越し含めて何度か小田原行ったら何かあの土地気に入ったし、宮田さんの身内とも仲良くなれるチャンスなんて中々ないですし、何より昼飯出してくれるって言うんですから。一食浮かせるために有難く手伝います」
「中々楽しい人だね、微笑君って。そういう雰囲気、俺好きだな」
「ありがとうございます。褒めてもらって」
「どう致しまして」
「…そうだ、一食といわず、二食浮かせていって下さい。夕食もご馳走しますよ」
 隆と会話をしている三太郎に、五ヶ月になり少し大きくなったお腹を大切にしながら細々とした片付けをしている葉月が明るく声を掛ける。その言葉に土井垣が少し叱る様に、しかし愛と優しさは充分伝わる口調で声を掛ける。
「葉月、それは大盤振る舞い過ぎだぞ」
「でも、あたしの分も手伝ってもらってるんだもの。お礼がしたいの」
「しかし…」
「いいじゃない。どうせ向こうに行ったらご近所の人が待ち構えてて宴会だし。みんなで食べるとあたしも長引いてるつわりが不思議と減るし、きっと楽しいもの…ね?」
「…仕方ないな」
「ありがとう!…という訳であっちで美月ちゃんと一緒にお姉ちゃんが待ってる隆兄だけじゃなくって、微笑さんも是非夕食一緒に食べていって下さいね。何なら一晩位なら泊まって行ってもいいですよ」
「葉月、それはいくら何でもちょっとやりすぎだ。今日はその…ほら、引越し初日だぞ」
 赤面しながら言葉を紡ぐ土井垣の言葉の意味を分かってか分かっていないのか、自分のお腹を優しく擦りながら、にっこり笑って葉月は言葉を返す。
「だからよ。大宴会で絶対将さんは一晩中近所の方とお付き合いよ。あたしはこの子達がいるから寝かせてもらえるけど、将さんはそうはいかないわ。道連れ作っておいた方がいいもの」
 葉月の言葉に、隆も笑って同調する。
「確かにそうだ、将さん。お義父さん含めて皆宴会好きだから離してくれないな。ご近所と親しくなるいい機会だし『郷に入っては郷に従え』ってね。俺も付き合うから微笑君も道連れにしちゃいな」
「…分かった」
「…という訳で今夜は心置きなく飲めますよ、微笑さん」
 葉月の勢いにすっかり呑まれて小さく溜息をついている土井垣を見ながら、三太郎は楽しそうに彼に声を掛ける。
「土井垣さん、すっかり宮田さんの尻に敷かれてますね」
「…うるさい、三太郎」
「でもその位のバランスが丁度いいんだよ。下手に男が『俺について来い!』なんてやってると、余計な摩擦の元。案外女性の方が水面下とはいえまだ社会的に制約多い分、色んな事が見えてる事が多いんだから」
「宮田さんのお兄さん」
「隆でいいよ。俺は将さんと同い年だしね」
「じゃあ…隆さん、同い年なのに土井垣さんと比べて、中々こなれた回答ですよね。経験談ですか?」
 隆の言葉に感心した様に問い掛ける三太郎に、隆は明るく答える。
「ああ。俺は姉さん女房だからって事も大きいかもしれないけど、文乃さんに無意識に教えられる事って結構多いからね。じゃあ尻に敷いてるから女性が偉ぶって良いかって言うとそうじゃなくて、逆に文乃さんも俺から伝わる事ってたくさんあるって言ってるし。お互いそういう事大事にしたいなって思えるんだ」
「はあ…」
「将君も葉月ちゃんもお互いそうした夫婦になる様にね。微笑君も家庭を持ったらそうして奥さんを大事にする事。お互いが誰よりも一番身近な戦友なんだからね。家庭人の先輩として、俺からの一言だよ」
「…はい」
「…うん」
「…」
 ウィンクしながらの隆の言葉に、葉月と土井垣は赤面して頷く。三太郎は隆の言葉を聞きながら弥生の事を思い出し、胸が痛んだ。自分と結婚したいと言っているのに、その反面で別れを口にする彼女。彼女の本心が一体どこにあるのか、彼は知りたくて仕方がなかった――

 そんな事を考えながらも引越しの作業を終えて、葉月の実家の傍に土井垣が買った一軒家へと運び荷物の配置を終えた後、葉月と先に来ていた文乃が料理を作り、夕食は葉月の両親や近所の人間も訪問しての大宴会となった。
「いや~葉月ちゃんがけえって来ただか~しかも旦那に、まだ腹ん中とはいえ双子を連れてだもんな~いや、本当にめでてぇな」
「ありがとうございます、皆さん。またこれからどうかよろしくお願いします」
「ああ、よろしくな!…おっ将、な~に遠慮してるね。お前が祝いの主だべ?ほら飲め飲め」
「そうだな、将君。私の代わりにどんどん飲んでくれよ。何しろ私は全く飲めないからね」
「はあ、どうも…お義父さんの代わりも含めて…頂きます」
 明るい近所の人達に遠慮がちになりながらも内心は楽しんでいる様子で盃を傾ける土井垣を笑いながら、三太郎も酒を注いでもらって飲む。そうするうちに色々な話がされていく。
「もう少ししたら、文乃ちゃんと隆と柊司もここにけえって来るんだべ?しかも文乃ちゃんもこんな元気で可愛い子を連れてけえって来るんだもんな~。いや~一気にこの町も賑やかになるべ」
「はい。こっちで独立する文乃さんや、事業拡大で本社こっちにする柊司さんと違って、ちょっと俺は通勤大変になりますけど、戻って来れて嬉しいです」
「私も育ったここに帰って来れて、ここで美月を育てられるのが嬉しいです。…そうだ、すぐに美月が馴染んじゃったから、すっかり忘れてたわ。み~ちゃん、こっちへいらっしゃい」
「あ~い!」
 部屋の中を祖父母や客と時折遊びながらよちよち巡回していた美月は、呼んだ母親の言葉に反応して文乃の傍へやはりよちよちと走っていく。寄って来た所で文乃は美月に優しく声を掛ける。
「もうすぐご近所になるんだからおじちゃんやおばちゃんにご挨拶しようね~。よろしく~、はい」
「よ~く!」
文乃の言葉に合わせて美月は客に向かって幼い言葉で挨拶すると、にっこり笑ってぺこりと頭を下げる。それを見た客もにっこり笑ってそれに応える。
「よろしくね~美月ちゃん。まだ二つだったわね。元気で可愛いだけじゃなくって頭もいいのね~」
「まるで昔の文乃ちゃんと葉月ちゃんを見てるみたいだべ~」
「でもどっちかって言うと親の私より葉月に似てますよね。親がこう言うのも何ですけど」
「そうだな~しっかりしてた分お澄まし屋さんだった文乃ちゃんよりも、人懐っこくて活発な分、葉月ちゃん似だべな」
「へぇ…昔の宮田さんって、こんな感じだったんですか?」
 三太郎の問いに、客や隆や雅昭や六花子も混じって笑いながら答える様に思い出話を紡いでいく。
「ああ。人懐っこくて、丈夫じゃねぇ割に悪気はねぇけど活発で何やらかすか分からねぇ子だったから、両親のここにいる雅昭達や今はもう亡くなったじいさんの達吉さんだけじゃなくて、町内中の人間がハラハラしてたべ」
「俺も文乃さんも柊司さんも、結構葉月ちゃんの行動には被害にあったな。特に柊司さんは、葉月ちゃんに惚れた弱みで甘かった分、被害拡大してたし。確か一回自転車二人乗りで、箱根まで遠征してアスレチックに遊びに行ってお義父さんと柊司さんの親に怒られたりとかしてたよな~」
「あたしも友達から借りた本勝手に持ってかれて落書きされたり、文房具持ってかれてコンパスの針で指怪我されたり、自転車勝手に乗られて壁にぶつけられて壊されたり、血のつながった妹なのに、ホントに振り回されっ放しだったわ」
「そうだな~あの頃は本当にすまなかったな。柊司は今ここにいねぇが、文乃も隆も皆も。自分の娘にこう言っちまうのも何だが、本当に突拍子もない娘だったからな~」
「ええ、本当に。ちょっと目を離すと川に落ちてたり、人の家の三輪車に乗って転んでたり、勝手に家に上がってご飯一緒に食べてたり、酷いとお風呂に入ってたり…本当にすいませんでした」
「皆さん、お父さんもお母さんも隆兄もお姉ちゃんまで。将さんの前でばらさないで下さいよ~」
「いいだよいいだよ、気にしねぇで。あの頃の葉月ちゃんは突拍子もねぇが、根は優しいいい子だったべ?」
「そだそだ。家に上がりこんだって言ったって、大抵は一人暮らしで寂しがってる年寄りの家でよ、保育園や雅昭達に聞いてきた色んな話を一生懸命したり、一緒に遊んだりして喜ばせてたんじゃねぇか。だからそこの年寄りが可愛がって飯食わせたり、風呂に入れてくれてたんだべ?行動は確かに突拍子ねぇが、考えの根っこはいい子だったべ」
「…」
 葉月の慌てた言葉に一同は爆笑して更に言葉を重ねる。その笑いと言葉に葉月は居心地が悪そうに沈黙したが、その彼女を隣で見ていた土井垣は不意に彼女を抱き寄せて、言葉を紡ぐ。
「そうか。…活発だったという話は皆から色々聞いていたが、昔から優しかったんだな、お前は。お義父さん達やこの人達の表情だと、皆がそんなお前を心底可愛がっていた事が良く分かるぞ」
「将さん…」
「…こんなに周りに愛されたお前を女房にもらえて…俺は幸せ者だな」
「…え」
 土井垣の普段人前では絶対しない言動に、葉月は戸惑って硬直する。戸惑っている葉月を助けるためと、土井垣をからかうために、三太郎は茶化す様に彼に声を掛ける。
「土井垣さ~ん、いい塩梅ですね~。でも、いつももこうじゃないといけませんよ~?」
「!」
 三太郎の言葉に、土井垣は自分が口走った言葉に気付き、絶句する。客と雅昭は三太郎に乗って二人をからかう様に言葉を繋いでいく。
「まあいいじゃねぇか。酔った勢いでも本音を出してくれるのは嬉しい事だべ?なぁ?葉月ちゃん」
「惚れ込んでくれるいい旦那持って、本当に幸せもんだら~葉月ちゃんは。こんないい旦那は大事にしろら?」
「将もな、町内中皆で可愛がった葉月ちゃんを女房にもらったんだから大事にしろ。分かったけ?」
「大事にしねぇと俺達もそうだが、誰より雅昭が怖ぇぞ~?」
「そうだな。どんなに突拍子がなくてもうちの可愛い箱入り娘だ。大事にしてくれよ、将君」
「…」
 その言葉に二人は恥ずかしげに沈黙する。そうして楽しく飲んで食事をしていたが、不意に客の一人が葉月に問い掛ける。
「でも、葉月ちゃんは仕事どうするね。今の仕事続けるんだべ?元々ここを出てったのは確か仕事の開始が早すぎて通勤しきれなかったからじゃなかったけ?」
 客の言葉に、葉月はにっこり笑って応える。
「いいえ。言ってませんでしたが、実は今の職場は今年一杯で退職するんです。親友の医師が今度真鶴にある家業の内科と小児科を継ぐ事になって『保健師がいてくれると保健指導や育児相談もできるし、気心も知れた私と一緒なら何かと心強いから一緒にやりたい』って私を引き抜いたんで。親友の方は後輩に引継ぎをしてから4月に戻ってくるんですが、私は産休前に産んだ後の事の打ち合わせと慣らしも兼ねて、一足先に年明けから働く事になって。だから私も有給消化で暇で、将さんも時間があるこの時期に帰って来たって訳です」
「小田原からでしたら自分も今はホームには通えない距離でもないですし。万が一遠征の移動で間に合わない時のために葉月の部屋は残してありますから、自分も小田原に戻るのは賛成したんです」
 その言葉を聞いて三太郎は驚く。どう考えてもその親友は――
「宮田さん、その親友って、弥生さん!?だよな!?」
 両肩を揺らして問い詰める様に問い掛ける三太郎に、葉月は戸惑った口調で答える。
「…え?…はい、そうですけど…微笑さん、ヒナから聞いてなかったんですか?」
「…ああ」
 三太郎はがっくりと肩を落とす。弥生は東京を離れるのか。だから自分とは別れを告げなければならないと一人で決意していたのだ。肩を落とす三太郎を葉月はしばらく見詰めていたが、やがてぽつりと問い掛ける。
「…で、微笑さん、分かった所で…どうします?」
 その言葉と視線には、自分の心を見詰める色が含まれていた。まるで彼女が決意した別れに絶望して、それを受け入れようとしかけている自分を咎める様な、そして親友のためにその自分をもう一度奮い立たせる様な――その眼差しに応える様に三太郎はふっといつもとは違う何かを脱ぎ捨てた笑顔を見せると、土井垣と葉月に言葉を掛ける。
「土井垣さん、宮田さんにも。ちょっとお願いしたい事ができたんですけど…」