そうして山田の復調も相まって、最下位からは何とか脱したが結果は四位に終わり、クライマックスシリーズ進出もなくなったため、ある意味不本意な面もあるが、心おきなく若菜の芝居に出られる事になった。公演は土日だが金曜日に舞台の設営や借りた衣装の最終合わせがあるので、衣装を借りた義経も行かなければいけない事もあり、金曜から若菜の家に泊まる事になった。まず着替え等を置くために若菜の家に行く。家に着きチャイムを鳴らすと、若菜の両親が笑顔で出迎える。結婚を前提として付き合わせてくれと頭を下げた当初こそ厳しく義経を拒んだ若菜の父だが、仲を許して色々と話をしていくうちに義経の生真面目かつ実直な性格や教養の深さ、何より若菜を心から大事にしているその心意気に好感を持ち、今ではすっかり彼の事がお気に入りになり、すでに家族扱いにしている。
「あら、来たのね光さん」
「はい、このところ入り浸りで申し訳ありませんが、またしばらくお世話になります」
「かまわんさ。この三日は忙しいだろうが、合間でいいからまた色々話を聞かせてくれ。ああ、この時間だがお昼は食べたかね」
「はい。駅で食べてきました」
「じゃあお茶を一服して、若菜を待ってから行ってくれ。若菜は午前中仕事をしていて、一緒に行きたいから待ってもらってくれと頼まれているんだ。もう少ししたら帰ってくるだろうから」
「しかし、皆さんが設営しているのにそんな呑気にしていていいのでしょうか…」
 義経の言葉に、若菜の父は苦笑しながら言葉を紡ぐ。
「…いや、だからこそだよ。ある時若菜が口を滑らせたんだが、設営はセット作りをした人間じゃないと分からない事が多くて、逆に中途半端に手を出すと邪魔になるらしくてね。しかも皆公演前で殺気立ってるから下手な事はできないって、若菜も正直衣装合わせがなかったら顔を出したくないらしい。だから何かと理由を作って最低限の時間を割けばいいこういう形をとっているみたいだよ。仕事があるなら設営に顔を出さなくても言い訳が立つしね」
「はあ、そうなんですか…」
「まあ、そんな話は置いておいて。とりあえずは上がって若菜を待ってくれ」
そうして家に上がってお茶を飲みながら話していると、若菜が帰って来て、義経に笑顔で挨拶する。
「ただいま…あ、光さん、もう来てたんですか。ええと…いらっしゃいだと何だかよそよそしいかな。…でも、お帰りなさい…って言っていいのかしら」
「ああ、ええと…こうしたお付き合いをしているとはいえ、俺はここで『ただいま』と言っていい身なのでしょうか。お父さん、お母さん」
「どうぞ、あなたももううちの家族だもの」
「若菜を本気でもらう気になっているのだから、ここも君の家だよ」
「…」
「…ありがとうございます」
 二人は真っ赤になって顔を見合わせる。それを見て若菜の両親は笑った。そうして若菜が普段着に着替えお茶を飲んだ後、二人で用意した芝居に使う荷物を持って、市民会館のホールへ行く。ホールでは大きな設営はほとんど終わっていて細かな部分の設営をしていた。二人は設営をしている人間に声をかける。
「おはようございます、来ました」
「こんにちは、何かできる事はありますか」
 二人の言葉に、臼田がセロテープとポスターを出して二人に声をかける。
「じゃあ、荷物置いたらこれ表に貼ってきて。若菜ちゃんは毎年やってるから分かるよね」
「はい」
「分かりました」
 そう言うと二人は舞台横の大きな楽屋の一角に置いてある他の座員の荷物と一緒に自分達の荷物を置き、ポスターを二人で協力して表の扉全面に貼る。そうして貼り終わったところで背後から若菜に声が掛けられた。
「神保、あんた髪巻く時間じゃない。時間ずれるとあっちも困るんだから早く行ってきな」
「え?…あ、ホントだ、すいませ~ん。…じゃあ光さん、しばらく皆さんから指示もらって動いて下さい」
「…?…ああ、分かった」
 そう言うと若菜は飛び出して行った。義経がそれを見送っていると、女性が彼に更に声をかける。
「神保はああ言ったけど、何にも知らない義経ができる仕事って言うと正直少ないよなぁ。…ああそうだ、義経、あたしが時間作れるまで、今やり方教えるから控室に置いてある化粧箱の紅筆の紅落してくれない。いつもなら女子にやってもらうんだけど今いないから」
「ああ、はい。僕にできるのでしたら」
 義経は言われた通り、紅筆にクレンジングクリームを擦り込んでは水で流して、ティッシュで水気を取りつつ、ついている紅やドーランなどの落ち具合を確かめ、落ちない様ならまたクレンジングクリームを擦り込んで…という作業を繰り返す。すぐできると思ったが意外に落ちづらく、全部終わる頃には大分時間が経っていた。そうして一息つくと、若菜が帰って来る。その姿に一瞬彼は目を見張る。彼女の背中に流れる長く美しい髪が無く、代わりに頭に大きなスカーフが巻かれていたからだ。
「若菜さん…その頭は…」
 義経の様子に若菜は苦笑すると、説明する様に言葉を紡ぐ。
「…驚きますよね。こうして一晩髪にカーラーを巻いてくせをつけて、髪を結いやすくするんです。一応結う時にこて当てますから、私くらいの長さになればやらなくてもいい人もいるらしいんですけど、私の髪質だとやらないと髪結いにくいらしくて。…ちょっとこれで外歩くのは恥ずかしいんですが」
「はあ…色々大変なんだな。…でも、見慣れるとこれはこれで可愛いかもしれない」
「…そうですか」
 そう言うと二人は笑い合う。その内にまず若菜が呼ばれ着付けのスタッフである小笠原に衣装の丈などを見て貰い、その後義経が衣装を見てもらう。
「義経君は藩主役だったわね。…ああこれね。衣装は今見たら衣紋掛けにかけて出しておいてもいいけど、さっき衣裳係の由美ちゃんに言われた通り、入っていた袋とか紐とか名札の紙はしまう時にまた使うから一緒にして無くさないでね。かつらも同じよ」
「はい、分かりました」
「じゃあ簡単に合わせるから」
 そうして衣装合わせをしてもらい丈などを見て、小笠原が口を開く。
「うん、丈はオッケーね。後は義経君全体的には体格良いけどウエストは細身だから、見栄え良くするのと着くずれ予防に、本番はウエストにタオル巻きましょう。明日持って来てくれる?」
「ああ、若菜さんにアドバイスされて一応今も持っていますが…」
「じゃあ足りるか見るから貸して」
 そう言うと小笠原は義経からフェイスタオルを受け取るとウエストに巻き紐で絞め、様子を見る。
「…うん、枚数はこれでいいみたいね。じゃあオッケーよ。後は神保さんが見てくれたんなら大丈夫だろうけど、男性と女性だといる物も違うし、とりあえず足りないものないか確認させてね。…うん、大丈夫ね。じゃあ終了」
「はい、ありがとうございました」
 そうして衣装合わせが二人とも終わったところで二人はできる事もなくなったので、挨拶をして家に帰った。

 家に帰ると若菜の両親が夕食を作って待っていてくれて四人は和やかに食べ、話をする。そうして話して行くうちに、ある種義経にはとんでもない話題が上がった。
「…ああそうだ光君、公演は私達とおばあ様だけじゃなく、光君のご両親もいらっしゃるから」
「え?僕は教えてないのにどうしてまた…」
「いえね、この間私と光さんのお母様と電話でお話しした時にこのお芝居の話になって、話を聞いたお母様が、せっかくの息子の晴れ姿を見ない訳には行かないし、若菜のお芝居をする姿も直に一度観たいと思っていたから観に行きたいわっておっしゃってね。だったらいい機会だし、一緒に行きましょうって事になったのよ」
「お母さん、私もその話聞いてない。…それにチケット、おばあ様は直に渡してるから、二人分しかうちには渡してないよね…?」
「だって、『あなたに話したら何かと気を遣うだろうから、ギリギリまで秘密にして』ってあちらのお気遣いがあったんだもの。チケットはお店でちゃんと買ったわ。だから精一杯のお芝居をなさいね」
「…はい」
 二人は真っ赤になって沈黙する。そうして話した後それぞれ風呂を使い、寝る前に二人は話をする。
「…何と言うか、内輪だけとはいえ、どんどん話が大きくなっていくな…」
「そうですね。…そういえば渋民っていうと光さん、武蔵坊さんを呼んだんですよね」
「ああ、そうしたら内容を聞いた総師もこういう芝居なら観たいとおっしゃってな。一緒にいらっしゃるそうだ」
「総師様まで…なんだか恥ずかしいです」
「もう一つ話すと、いい機会だから武蔵坊に彩子さん達も連れて来るといいと言ったが、それは固辞されたよ」
「もう、光さんたら、いくらあの二人がもどかしいからってやりすぎですよ。渋民からだと、初日でも楽日でも泊まりがけです。お嫁入り前の娘さんを何だと思ってるんですか」
「そういう若菜さんは、嫁入り前でも俺と一緒に渋民に来てくれたじゃないか」
 悪戯っぽい義経の言葉に、若菜は顔を真っ赤にして一瞬絶句した後、ぽつり、ぽつりと話す。
「それは…私の場合は光さんと一緒になるって決心をつけていたからで…あの二人とは違います」
「…確かにそう言われたらそうか。…ああ、いつの間にか話がずれている。話を戻すが、正直なところ、こうなってきて緊張してきた。皆さんに足を引っ張るかもとは言ったし、そうならない様に稽古も精一杯やったとはいえ、絶対的な時間は少ないし、何しろ初舞台だ。失敗したら皆さんに…誰より若菜さんに申し訳ないと」
「…光さん」
 義経の心が分かる言葉に若菜は静かに微笑むと、彼をふわりと抱きしめて囁く様に言葉を紡ぐ。
「…光さんの気持ちはとっても嬉しいです…でも、だからって稽古でやった事を忘れてうまくやろうと思わないで下さい。うまくやろうとするといい事はないって、前に話した私の初舞台の失敗話で分かってるでしょう?」
「…そういえばそうだった」
「この間言ったじゃないですか。本番は一瞬の夢だって…だから…夢を見せて…私たちも見ましょう?…一瞬の…でも、心には何かがきっと残る夢を」
「…ああ、そうだな。俺達は夢を見せて…俺達も見るんだ…それでいいんだな」
「…はい」
「それならできる…明日と明後日は夢を精一杯見よう…若菜さんと一緒に」
 そうして二人は唇を合わせた――