そうして翌日。二人は早朝に起きると朝食をとり、若菜は『私は髪を結うんで一足先に行きます。光さんは集合時間に遅れない様に来て下さい』と言って普段使いのウールの着物に着替えて先に出て行った。とはいえ義経もする事がないので少しだけ遅れる程度で家を出る。そうして市民会館に辿り着き、入り口のドアを押してみると開いていたので中に入る。何か声がするのでホールの扉を開けてみると、照明などを合わせているのか、声を上げスタッフが忙しく立ち働いていた。それを見て彼は背筋が伸びる気がした。そうして楽屋に入ったが誰もおらず、とりあえず楽屋にあるソファに腰を下していると段々と座員がやってくる。彼が挨拶をしつつ何をやったらいいか聞くと、『鏡が少なくて時間が経つと混むからできるならメイクを始めて欲しい』と返された。が、舞台メイクなどやった事がないので戸惑っていると、様子を見ていたスタッフである老齢の男性が声を掛けてくる。
「メイクはやった事がないかね」
「あ…山路さん…でしたよね…はい」
「じゃあ基礎を教えてあげるよ。基礎は簡単に覚えられるから、明日もあるし大体は自分でできる様にしようね。仕上げはあたしがやるから」
「ありがとうございます、お願いします」
「じゃあまず準備をしようか」
義経は山路の指示通りにまずかぶり物の服をすべて脱ぎ、前開きのものだけにするとクレンジングクリームを塗って顔の脂を落とし、顔を洗うと鏡の前に座る。
「まずは羽二重をつけてからメイクだよ。羽二重は自分でつけるのは無理だから、あたしか由美君に言ってつけてもらって。それからこの羽二重は青天…つまり上が青いから、今はドーランを塗るんだ。でも公演が終わったら、返す前にちゃんとクレンジングで落してね」
「はい」
そうして渡してもらったドーランで青い部分を塗り、山路につけてもらった後、教えてもらいながらメイクをしていく。ドーラン、眉墨、アイライン…手慣れていないが、山路の指導がいいせいかそれなりに形になった。そして最後に山路が自分で持ってきたメイク道具で仕上げをし、『ほら、完成』と言うと、目の前には精悍な顔立ちが引き立った自分が写っていた。
「…ありがとうございます。何と言うか…すごいとしか言えないです」
「いや、初めてでここまでできた君もなかなか筋がいいよ。まだ本番まで時間があるし、軽食や水分をとると本番の頃には少し崩れてしまうだろうから、また本番前に直してあげるね」
「はい、ありがとうございます」
と、髪を結って女子楽屋に着いていたらしい若菜が楽屋にやってきて山路に声をかける。
「山路さ~ん、メイクなんですけど、休憩時間と着替えを考えて三分で町娘から姫に変えるとすると、どんな風にしたらいいでしょう」
「そうだねぇ…神保君だとすると、ドーランを普通の町娘よりちょっと白めで、目鼻立ちをはっきりさせるくらいにしておいて、姫の時には上から粉をかけて白さを足して、紅を赤めに変えれば結構何とかなると思うよ」
「ありがとうございます。じゃあ後で出来具合見て、直すところを教えて下さい」
「ああ」
そう言うと若菜は楽屋から出て行った。それを見ていた義経は山路に問いかける。
「またどうして男性の楽屋に来てまで化粧の方法を聞くんでしょう彼女は…」
その言葉に山路は苦笑しながら答える。
「まあ、あたしが現役の役者で出てた頃にメイクのこだわりを出してたのを知ってるって言うのもあるんだけど、それ以上に女子で聞ける人間が誰もいないんだよ。ついでに君だから言うけど、彼女女子と一緒にいるの息苦しいらしくて、衣装を着終わると大方こっちで時間つぶしてるよ」
「そうなんですか…」
義経は若菜を思って胸が痛む。楽屋にすらいられないほど息苦しい場所で、彼女は観客に夢を見せるためだけに一生懸命になっているのか――義経の表情を見た山路は、宥める様に彼の肩を叩き、言葉をかける。
「ほら、そんな顔しない。今年は君がいるんだ。そのおかげかな、稽古の時の表情で分かったけど、今年はそれでもかなり気分的に楽みたいだよ」
「そうでしょうか」
「ああ。だからなるべく傍に居てやりなさい。そうすれば彼女も心強いよ」
「はい」
そう言うと山路は微笑んだ。
そうしてそれぞれがメイクをしたり羽二重をつけてもらったりしていると、打ち合わせのための集合時間になる。一同は舞台に集合して、これからのタイムスケジュールや申し送りを統一した後、またそれぞれの準備に戻る。義経は最後に出るので衣装は他の座員の様子を見て着せてもらおうと隅で静かにしていると、町娘の衣装に着替えた若菜が姫の装束を持ってやってくる。
「すいませ~ん、着替えのタイムロスと、着た後の着くずれの危険少なくしたいんで、こっちで着替える事になりました。隅にかけさせといて下さい」
「オッケー」
そうして若菜は衣装掛けに衣装をかけると、山路にメイクの仕上がりを見てもらい、義経の傍にやってきてにっこり微笑み言葉を紡ぐ。
「光さん、メイクしてもらったんですね。かっこいいです」
「そうか…若菜さんは自分でその化粧をしたのか?」
「はい」
「その…簡素な分、顔立ちが引き立って…なかなか綺麗だ」
「…そうですか」
そう言うと若菜は恥ずかしそうに微笑み、着替える様に呼ばれた義経を静かに微笑んで見守る。そうして彼女に見守られながら義経は衣装を着けていった。まず足袋をはき、肌襦袢をきちんと整え、タオルを巻いて紐を結んだ後、衣装の襦袢、着物、袴、羽織と着せられる。そしてすべて着終わりかつらをつけると、そこには精悍かつ威厳のある侍が立っていた。座員達は感心した様なため息をつく。
「ここまで似合うとは…おみごと」
「青年藩主登場って感じだね」
「はあ…ありがとうございます」
そうして定刻までにほぼ全員が衣装を着て通し稽古を行う。装置と照明が入ると全く勝手が違う上、舞台に立ってみると客席がとてつもない広さに思えて、ある種の恐れを覚える。それでも何とか今までの稽古を思い出しながら舞台稽古を終わらせ、それぞれに注意をした後、昼食を取って今度は衣装も完全に着て、休憩時間もまったく同じ様にとるゲネプロ。何とか平静を保っているものの、緊張感漂う舞台に義経は圧倒されていた――
「すげぇ…こんなに客いるのかよ。プロ顔負けじゃないか」
会場に辿り着いた初日組の一団は入り口に並ぶ会場を待つ客の集団を見て目を丸くする。葉月と弥生と土井垣と三太郎は楽しそうな笑みを見せながら言葉を紡ぐ。
「そりゃ、小田原でこの劇団は一番歴史があってファンも多いんですから」
「お昼から並んでる人もいる位だしね」
「今年も盛況の様で良かったな」
「これからもどんどん客増えるぜ~」
「…確かに、これじゃ席全部自由だから、ギリギリなんかに来たらいい席取れないな…」
緒方がため息をつく。
「…で、里中も劇団の人に知り合いが多いって事は、お前もここの芝居観に来た事あるのか?」
星王の問いに里中は首を振って答える。
「いいや、昔っからこの位客が来てた事は知ってるけど、俺が小田原いた歳頃じゃ、ここの芝居は正直まだ難しくってスルーだよ。今でこそ地元舞台のオリジナル劇主にやってるそうだけどさ、俺が知ってる頃の公演って言うとほんとにスタンダードな『アンネの日記』とか古典のゴーリキーの『どん底』とか『夕鶴』だぜ?多分あの歳じゃ観てもまだ分かんなくてつまんないってなったと思う」
「じゃあ何で劇団の人に知り合いがいるんですか?」
小岩鬼の重ねての問いに里中は更に答える。
「ここ葉月ちゃんから聞いた通り、地元アマチュア劇団だろ?近所のおじさんが入ってて、公演近くなると良くあちこちにポスター貼ってたから色々話だけは聞いてたんだ。葉月ちゃんの実家の近所なんてそんな人達の密集地帯だったしな。だから劇団の人だからじゃなくて、近所のおじさんがこの劇団で芝居やってた、っていう感じで馴染みなんだ」
「そうなんですか~」
「でもオリジナルの劇でこれだけお客さんが来るって言う事は、実際として本当にいいお芝居をするんだろうな」
山田の言葉に葉月はにっこり微笑んで応える。
「はい。それに地元が題材ですからね。小田原っ子にとっては最高の舞台ですよ」
「とすると、俺からしたら小田原といえば戦国時代の後北条五代って感じなんすけど、小田原北条氏の芝居ってのもやった事あるんすか?」
池田の問いに葉月は少し考えて答える。
「え~と…その時はお姫が裏方だったんで私は観てないんですが、十年ちょっと前の『とくひめ』ってお芝居が確かそうだったってお姫に聞いたなぁ…」
「督姫…また地元ならではのマイナーどころでござんすねぇ…」
池田が感服半分、呆れ半分のため息をつく。その様子に岩鬼が割り込む。
「なんじゃいその『とくひめ』っちゅうのは」
岩鬼の言葉に、弥生が説明する様に応える。
「督姫は徳川家康の娘で、小田原北条の最後、五代目氏直の正室になって、氏直が亡くなった後は池田輝政っていう姫路城のお殿様の継室…要するに後妻になったお姫様よ。で、確かその芝居は彼女中心にして北条氏の滅亡について書いてたんだっけ。あたしも舞台自体は話しか聞いてないけど、能とか使って結構豪華な舞台だったそうよね」
弥生の言葉に葉月が続ける。
「そうそう、でも公演決まってご挨拶に駅にある氏政、氏照のお墓にお参りに行って写真撮ったら心霊写真が撮れちゃうわ、設営の時に落ちるはずがない吊ったバトンが落ちるわ、公演中に地震は起こるわ怪奇現象が連発して、正直とんでもない芝居だった…っていう話もあたし聞いたよ」
「神保の奴、呪われとるんやないけ?」
岩鬼のからかいに葉月がさらりと返す。
「残念でした。むしろお姫は『お守り』です。怪奇現象が起きた時は全部お姫がその場にいなかった時だし、ある意味もっと怖いジンクスがある唐人お吉が題材の時、お姫は観光がてらって姿勢が嫌で他の劇団の人と一緒に下田の菩提寺にお参りに行かなかったんですけど、その公演では全く何にもなかったんですから」
「そう聞くとささやかだが、ある意味武蔵坊の様な力がありそうな存在だな彼女は…」
「俺が何か」
土井垣が何とも言えない感情でため息をつきながら言葉を紡いだ時、背後から声がする。一同が振り向くと、そこには武蔵坊と山伏道場の総師が立っていた。
「うわっ!武蔵坊、お前何でここにいるんだよ」
驚きが隠せない一同に武蔵坊はふっと笑って答える。
「義経から話を聞いてな。面白そうな話だったから、総師ともども観に来た」
「久しいのう、山田に土井垣」
「はい、お久しぶりです」
「ご無沙汰しています。義経には本当に助けてもらっています」
「こういう形で一緒になったんだ。同行してかまわんか」
「ああ、かまわない。一緒の方が楽しいだろうし、義経達もきっと喜ぶだろうから」
「では同行させてもらうかの」
そう話していると不意に入口から法螺貝の音が鳴り響く。驚いて一同が振り向くと、どうやら開場の合図だった様だ。扉が開き、入場が始まる。一同がチケットをもぎりしてもらいながらロビーを見ると、先刻の法螺貝の主らしい男性も含め、鎧兜を着た男性が数人会場の案内をしていた。目を見張りつつホールに入り、ある程度分散はしたが例年通り中央前寄りに席を取った一同はまた話し始める。
「…すげぇな、あれも衣装会社から借りたのかな」
「でも、案内だけでそんなお金はかけないと思いますけど…あ、ちょっと待って下さい。そういえば…ああ、やっぱあそこか」
パンフレットを見直して納得した様に頷いた葉月に、三太郎が怪訝そうに問いかける。
「何だよ宮田さん」
葉月はパンフレットを見せながら答える。
「あれ、多分手作り甲冑隊の皆さんです。協力に名前がありますもん、ほら」
「ああ、ホントだ。でもその『手作り甲冑隊』って何なの宮田さん」
「『手作り甲冑隊』っていうのは市にある団体さんで、一年かけて紙とか木を使って甲冑を作って、5月の北条五代祭りのパレードとか、夏の間銅門でやってる写真撮影でお披露目してるんです。あの通り一見しただけじゃ本物と区別つかないくらい、皆さん上手なんですよ」
葉月の説明に土井垣が感服のため息をつく。
「ほう…そうだとすると本当に素晴らしい出来だな」
「しかし甲冑は良いが、法螺貝は吹き方がなっとらんかったぞい」
総師の言葉に葉月は苦笑しつつ、宥める様に言葉を紡ぐ。
「まあそこは一般の方なんで勘弁してあげて下さい、ええと…そーしさんって呼べばいいんですか」
「いやいや、そなた達にまでそう呼ばれるのは正直居心地が悪い。じいさんとでも呼んでおくれ」
「じゃあ遠慮なく。…おじいちゃん、今日はよろしくお願いしますね」
「おじいちゃん、どうかお芝居楽しんで下さいね」
葉月と弥生の心からの歓迎と親しみが分かる言葉に、総師は孫を見る様なくしゃくしゃにした優しい笑顔を見せて言葉を返す。
「おうおう、ありがとう。もちろん弟子達も家族と思うておるが、禁忌を破っておるとはいえ、義経のおかげで若菜さんといい、そなた達といい、絶対にできるはずがなかった孫娘ができた様で、ほんに嬉しいのう」
心から幸せそうな笑顔を見せる総師に、武蔵坊は苦笑する。
「総師…まあ、笑顔が増える事は良い事ですが」
「さあ開演までもうちょっとだ。わくわくするぜ!」
同時刻の男子楽屋。軽食をとった義経はメイクを直してもらい、静かに椅子に座っていた。とはいえその心中は緊張で張り詰めている。そうして座っていると若菜が上の女子楽屋からかつらを持って来て、入口沿いの鏡の一角に置き、声をかける。
「すいません、このスペース使わせてもらいますね」
「了解」
「山路さん、顔直すメイクの道具これで大丈夫ですか」
「どれどれ…うん。これでいいと思う」
「これで準備よしっと…開演十五分前か。さっき覗き窓から見たら一階席一杯でしたよ」
「去年の芝居が良かったおかげだね。今年もひと頑張り、やるかね」
「はい」
そう言って若菜はにっこり笑ったが、座っている義経の表情を見てそっと近づき、声をかける。
「光さん…やっぱり緊張してますか」
「ああ、本番が近付くにつれて、正直…逃げたくなっている」
「…」
困った笑みを見せながらの義経の言葉に若菜は少し考えるそぶりを見せると、耳元にそっと囁いた。
「…大丈夫です。わたくしがついております」
義経は一瞬驚いた表情を見せたが、その言葉で一つ役に入りこめる気がして、その心に返す様に若菜に笑いかけると言葉を返す。
「…ああ、頼りにしている。気持ちが途切れそうになったら支えてくれ」
「はい」
そう二人が笑ったところで関谷が義経を呼び、舞台上で二人の写真を撮る。関谷は義経に頼んで一緒の写真を撮り、若菜も頼んで義経との写真を撮ってもらった。そこで舞台監督から開演5分前が伝えられ、若菜は出番のため、義経は舞台に気持ちの照準を合わせるために舞台袖にスタンバイする。義経は今まで柔らかな微笑みを見せていた若菜の表情がすっと役者の表情になった事に気づき、自らも集中するために深呼吸をして前を見据えた――
「メイクはやった事がないかね」
「あ…山路さん…でしたよね…はい」
「じゃあ基礎を教えてあげるよ。基礎は簡単に覚えられるから、明日もあるし大体は自分でできる様にしようね。仕上げはあたしがやるから」
「ありがとうございます、お願いします」
「じゃあまず準備をしようか」
義経は山路の指示通りにまずかぶり物の服をすべて脱ぎ、前開きのものだけにするとクレンジングクリームを塗って顔の脂を落とし、顔を洗うと鏡の前に座る。
「まずは羽二重をつけてからメイクだよ。羽二重は自分でつけるのは無理だから、あたしか由美君に言ってつけてもらって。それからこの羽二重は青天…つまり上が青いから、今はドーランを塗るんだ。でも公演が終わったら、返す前にちゃんとクレンジングで落してね」
「はい」
そうして渡してもらったドーランで青い部分を塗り、山路につけてもらった後、教えてもらいながらメイクをしていく。ドーラン、眉墨、アイライン…手慣れていないが、山路の指導がいいせいかそれなりに形になった。そして最後に山路が自分で持ってきたメイク道具で仕上げをし、『ほら、完成』と言うと、目の前には精悍な顔立ちが引き立った自分が写っていた。
「…ありがとうございます。何と言うか…すごいとしか言えないです」
「いや、初めてでここまでできた君もなかなか筋がいいよ。まだ本番まで時間があるし、軽食や水分をとると本番の頃には少し崩れてしまうだろうから、また本番前に直してあげるね」
「はい、ありがとうございます」
と、髪を結って女子楽屋に着いていたらしい若菜が楽屋にやってきて山路に声をかける。
「山路さ~ん、メイクなんですけど、休憩時間と着替えを考えて三分で町娘から姫に変えるとすると、どんな風にしたらいいでしょう」
「そうだねぇ…神保君だとすると、ドーランを普通の町娘よりちょっと白めで、目鼻立ちをはっきりさせるくらいにしておいて、姫の時には上から粉をかけて白さを足して、紅を赤めに変えれば結構何とかなると思うよ」
「ありがとうございます。じゃあ後で出来具合見て、直すところを教えて下さい」
「ああ」
そう言うと若菜は楽屋から出て行った。それを見ていた義経は山路に問いかける。
「またどうして男性の楽屋に来てまで化粧の方法を聞くんでしょう彼女は…」
その言葉に山路は苦笑しながら答える。
「まあ、あたしが現役の役者で出てた頃にメイクのこだわりを出してたのを知ってるって言うのもあるんだけど、それ以上に女子で聞ける人間が誰もいないんだよ。ついでに君だから言うけど、彼女女子と一緒にいるの息苦しいらしくて、衣装を着終わると大方こっちで時間つぶしてるよ」
「そうなんですか…」
義経は若菜を思って胸が痛む。楽屋にすらいられないほど息苦しい場所で、彼女は観客に夢を見せるためだけに一生懸命になっているのか――義経の表情を見た山路は、宥める様に彼の肩を叩き、言葉をかける。
「ほら、そんな顔しない。今年は君がいるんだ。そのおかげかな、稽古の時の表情で分かったけど、今年はそれでもかなり気分的に楽みたいだよ」
「そうでしょうか」
「ああ。だからなるべく傍に居てやりなさい。そうすれば彼女も心強いよ」
「はい」
そう言うと山路は微笑んだ。
そうしてそれぞれがメイクをしたり羽二重をつけてもらったりしていると、打ち合わせのための集合時間になる。一同は舞台に集合して、これからのタイムスケジュールや申し送りを統一した後、またそれぞれの準備に戻る。義経は最後に出るので衣装は他の座員の様子を見て着せてもらおうと隅で静かにしていると、町娘の衣装に着替えた若菜が姫の装束を持ってやってくる。
「すいませ~ん、着替えのタイムロスと、着た後の着くずれの危険少なくしたいんで、こっちで着替える事になりました。隅にかけさせといて下さい」
「オッケー」
そうして若菜は衣装掛けに衣装をかけると、山路にメイクの仕上がりを見てもらい、義経の傍にやってきてにっこり微笑み言葉を紡ぐ。
「光さん、メイクしてもらったんですね。かっこいいです」
「そうか…若菜さんは自分でその化粧をしたのか?」
「はい」
「その…簡素な分、顔立ちが引き立って…なかなか綺麗だ」
「…そうですか」
そう言うと若菜は恥ずかしそうに微笑み、着替える様に呼ばれた義経を静かに微笑んで見守る。そうして彼女に見守られながら義経は衣装を着けていった。まず足袋をはき、肌襦袢をきちんと整え、タオルを巻いて紐を結んだ後、衣装の襦袢、着物、袴、羽織と着せられる。そしてすべて着終わりかつらをつけると、そこには精悍かつ威厳のある侍が立っていた。座員達は感心した様なため息をつく。
「ここまで似合うとは…おみごと」
「青年藩主登場って感じだね」
「はあ…ありがとうございます」
そうして定刻までにほぼ全員が衣装を着て通し稽古を行う。装置と照明が入ると全く勝手が違う上、舞台に立ってみると客席がとてつもない広さに思えて、ある種の恐れを覚える。それでも何とか今までの稽古を思い出しながら舞台稽古を終わらせ、それぞれに注意をした後、昼食を取って今度は衣装も完全に着て、休憩時間もまったく同じ様にとるゲネプロ。何とか平静を保っているものの、緊張感漂う舞台に義経は圧倒されていた――
「すげぇ…こんなに客いるのかよ。プロ顔負けじゃないか」
会場に辿り着いた初日組の一団は入り口に並ぶ会場を待つ客の集団を見て目を丸くする。葉月と弥生と土井垣と三太郎は楽しそうな笑みを見せながら言葉を紡ぐ。
「そりゃ、小田原でこの劇団は一番歴史があってファンも多いんですから」
「お昼から並んでる人もいる位だしね」
「今年も盛況の様で良かったな」
「これからもどんどん客増えるぜ~」
「…確かに、これじゃ席全部自由だから、ギリギリなんかに来たらいい席取れないな…」
緒方がため息をつく。
「…で、里中も劇団の人に知り合いが多いって事は、お前もここの芝居観に来た事あるのか?」
星王の問いに里中は首を振って答える。
「いいや、昔っからこの位客が来てた事は知ってるけど、俺が小田原いた歳頃じゃ、ここの芝居は正直まだ難しくってスルーだよ。今でこそ地元舞台のオリジナル劇主にやってるそうだけどさ、俺が知ってる頃の公演って言うとほんとにスタンダードな『アンネの日記』とか古典のゴーリキーの『どん底』とか『夕鶴』だぜ?多分あの歳じゃ観てもまだ分かんなくてつまんないってなったと思う」
「じゃあ何で劇団の人に知り合いがいるんですか?」
小岩鬼の重ねての問いに里中は更に答える。
「ここ葉月ちゃんから聞いた通り、地元アマチュア劇団だろ?近所のおじさんが入ってて、公演近くなると良くあちこちにポスター貼ってたから色々話だけは聞いてたんだ。葉月ちゃんの実家の近所なんてそんな人達の密集地帯だったしな。だから劇団の人だからじゃなくて、近所のおじさんがこの劇団で芝居やってた、っていう感じで馴染みなんだ」
「そうなんですか~」
「でもオリジナルの劇でこれだけお客さんが来るって言う事は、実際として本当にいいお芝居をするんだろうな」
山田の言葉に葉月はにっこり微笑んで応える。
「はい。それに地元が題材ですからね。小田原っ子にとっては最高の舞台ですよ」
「とすると、俺からしたら小田原といえば戦国時代の後北条五代って感じなんすけど、小田原北条氏の芝居ってのもやった事あるんすか?」
池田の問いに葉月は少し考えて答える。
「え~と…その時はお姫が裏方だったんで私は観てないんですが、十年ちょっと前の『とくひめ』ってお芝居が確かそうだったってお姫に聞いたなぁ…」
「督姫…また地元ならではのマイナーどころでござんすねぇ…」
池田が感服半分、呆れ半分のため息をつく。その様子に岩鬼が割り込む。
「なんじゃいその『とくひめ』っちゅうのは」
岩鬼の言葉に、弥生が説明する様に応える。
「督姫は徳川家康の娘で、小田原北条の最後、五代目氏直の正室になって、氏直が亡くなった後は池田輝政っていう姫路城のお殿様の継室…要するに後妻になったお姫様よ。で、確かその芝居は彼女中心にして北条氏の滅亡について書いてたんだっけ。あたしも舞台自体は話しか聞いてないけど、能とか使って結構豪華な舞台だったそうよね」
弥生の言葉に葉月が続ける。
「そうそう、でも公演決まってご挨拶に駅にある氏政、氏照のお墓にお参りに行って写真撮ったら心霊写真が撮れちゃうわ、設営の時に落ちるはずがない吊ったバトンが落ちるわ、公演中に地震は起こるわ怪奇現象が連発して、正直とんでもない芝居だった…っていう話もあたし聞いたよ」
「神保の奴、呪われとるんやないけ?」
岩鬼のからかいに葉月がさらりと返す。
「残念でした。むしろお姫は『お守り』です。怪奇現象が起きた時は全部お姫がその場にいなかった時だし、ある意味もっと怖いジンクスがある唐人お吉が題材の時、お姫は観光がてらって姿勢が嫌で他の劇団の人と一緒に下田の菩提寺にお参りに行かなかったんですけど、その公演では全く何にもなかったんですから」
「そう聞くとささやかだが、ある意味武蔵坊の様な力がありそうな存在だな彼女は…」
「俺が何か」
土井垣が何とも言えない感情でため息をつきながら言葉を紡いだ時、背後から声がする。一同が振り向くと、そこには武蔵坊と山伏道場の総師が立っていた。
「うわっ!武蔵坊、お前何でここにいるんだよ」
驚きが隠せない一同に武蔵坊はふっと笑って答える。
「義経から話を聞いてな。面白そうな話だったから、総師ともども観に来た」
「久しいのう、山田に土井垣」
「はい、お久しぶりです」
「ご無沙汰しています。義経には本当に助けてもらっています」
「こういう形で一緒になったんだ。同行してかまわんか」
「ああ、かまわない。一緒の方が楽しいだろうし、義経達もきっと喜ぶだろうから」
「では同行させてもらうかの」
そう話していると不意に入口から法螺貝の音が鳴り響く。驚いて一同が振り向くと、どうやら開場の合図だった様だ。扉が開き、入場が始まる。一同がチケットをもぎりしてもらいながらロビーを見ると、先刻の法螺貝の主らしい男性も含め、鎧兜を着た男性が数人会場の案内をしていた。目を見張りつつホールに入り、ある程度分散はしたが例年通り中央前寄りに席を取った一同はまた話し始める。
「…すげぇな、あれも衣装会社から借りたのかな」
「でも、案内だけでそんなお金はかけないと思いますけど…あ、ちょっと待って下さい。そういえば…ああ、やっぱあそこか」
パンフレットを見直して納得した様に頷いた葉月に、三太郎が怪訝そうに問いかける。
「何だよ宮田さん」
葉月はパンフレットを見せながら答える。
「あれ、多分手作り甲冑隊の皆さんです。協力に名前がありますもん、ほら」
「ああ、ホントだ。でもその『手作り甲冑隊』って何なの宮田さん」
「『手作り甲冑隊』っていうのは市にある団体さんで、一年かけて紙とか木を使って甲冑を作って、5月の北条五代祭りのパレードとか、夏の間銅門でやってる写真撮影でお披露目してるんです。あの通り一見しただけじゃ本物と区別つかないくらい、皆さん上手なんですよ」
葉月の説明に土井垣が感服のため息をつく。
「ほう…そうだとすると本当に素晴らしい出来だな」
「しかし甲冑は良いが、法螺貝は吹き方がなっとらんかったぞい」
総師の言葉に葉月は苦笑しつつ、宥める様に言葉を紡ぐ。
「まあそこは一般の方なんで勘弁してあげて下さい、ええと…そーしさんって呼べばいいんですか」
「いやいや、そなた達にまでそう呼ばれるのは正直居心地が悪い。じいさんとでも呼んでおくれ」
「じゃあ遠慮なく。…おじいちゃん、今日はよろしくお願いしますね」
「おじいちゃん、どうかお芝居楽しんで下さいね」
葉月と弥生の心からの歓迎と親しみが分かる言葉に、総師は孫を見る様なくしゃくしゃにした優しい笑顔を見せて言葉を返す。
「おうおう、ありがとう。もちろん弟子達も家族と思うておるが、禁忌を破っておるとはいえ、義経のおかげで若菜さんといい、そなた達といい、絶対にできるはずがなかった孫娘ができた様で、ほんに嬉しいのう」
心から幸せそうな笑顔を見せる総師に、武蔵坊は苦笑する。
「総師…まあ、笑顔が増える事は良い事ですが」
「さあ開演までもうちょっとだ。わくわくするぜ!」
同時刻の男子楽屋。軽食をとった義経はメイクを直してもらい、静かに椅子に座っていた。とはいえその心中は緊張で張り詰めている。そうして座っていると若菜が上の女子楽屋からかつらを持って来て、入口沿いの鏡の一角に置き、声をかける。
「すいません、このスペース使わせてもらいますね」
「了解」
「山路さん、顔直すメイクの道具これで大丈夫ですか」
「どれどれ…うん。これでいいと思う」
「これで準備よしっと…開演十五分前か。さっき覗き窓から見たら一階席一杯でしたよ」
「去年の芝居が良かったおかげだね。今年もひと頑張り、やるかね」
「はい」
そう言って若菜はにっこり笑ったが、座っている義経の表情を見てそっと近づき、声をかける。
「光さん…やっぱり緊張してますか」
「ああ、本番が近付くにつれて、正直…逃げたくなっている」
「…」
困った笑みを見せながらの義経の言葉に若菜は少し考えるそぶりを見せると、耳元にそっと囁いた。
「…大丈夫です。わたくしがついております」
義経は一瞬驚いた表情を見せたが、その言葉で一つ役に入りこめる気がして、その心に返す様に若菜に笑いかけると言葉を返す。
「…ああ、頼りにしている。気持ちが途切れそうになったら支えてくれ」
「はい」
そう二人が笑ったところで関谷が義経を呼び、舞台上で二人の写真を撮る。関谷は義経に頼んで一緒の写真を撮り、若菜も頼んで義経との写真を撮ってもらった。そこで舞台監督から開演5分前が伝えられ、若菜は出番のため、義経は舞台に気持ちの照準を合わせるために舞台袖にスタンバイする。義経は今まで柔らかな微笑みを見せていた若菜の表情がすっと役者の表情になった事に気づき、自らも集中するために深呼吸をして前を見据えた――