そうして場面は変わり、祖母に頼まれた用の帰りにお礼を言うために若菜演ずる、ゆき改め榛名姫が又左衛門の屋敷に訪れた場面が演じられていく。義経は彼女の演技をこの場面の演技に込めたいと語っていた彼女の思いの事を思い出しつつ見つめる。まだ姫と町屋の娘との心がちゃんと混ざっていないため、又左衛門や静江を様付け、さん付で呼ぶ言葉づかいを、彼らから君臣の区別がつかなくなるからとたしなめられつつ、ゆきと呼ばれていた自分が、姫だと考えられ身元を確かめるために呼ばれたここで心からの世話を受けた事を、そしてセリフの内容ではただ聞くと自らの身を町屋の孤児から藩主の妹榛名姫としてくれた事の感謝ともとられる可能性はあるが、自分の心としては、観客に伝わるか分からないが、何よりも自分に家族を返してくれた事の感謝を込めて言うんだと言っていた『相模屋なければ今のわたくしはありませんでした、感謝しております』というセリフを紡ぐ。正直なところ、彼には観客に彼女の心が伝わったかは分からない。しかし聞いていたからだと言われるかもしれないが、彼には彼女のその心が充分伝わった。そして更に場面は進んでいき、彼女が思い出した火事の時の記憶の話がなされていく。炎と煙の中、侍女が身を呈して自分を抱き川へ飛び込んだものの、同じ様に次々と飛び込んでくる人波に手を放され、流されて溺れかけたところを墨染めの衣を着て顔は笠に隠れていたが優しい声で念仏を唱えている僧に救われた事を榛名姫は語る。その話に対して静江が『それは御仏でございます。御仏が坊様の姿を借りて姫様を救われたのでございますよ』と言葉を紡ぐと、榛名姫は微笑んで同意し、祖母である陽台院がきっとこれは持っていた日光東照宮の守り札のご利益だろうから、近いうちに日光東照宮へ参詣に行くと言っている事を語る。その言葉に又左衛門がこうして榛名姫が帰って来た事に対する自らの感謝の思いも込めて『その時は姫様、この又左衛門、老骨に鞭うってお供つかまつりますぞ』と言い、榛名姫はその言葉に微笑みながら榛名姫とゆき、二人分の心が込められた事が分かる口調で『無理をしてはなりませぬ、陽台院様も申しておりました。又左衛門は藩の名物男、名物には末長く生きて貰わねばならぬと』と言葉遣いは祖母の言葉を借りた姫のものでありつつも芯は町娘の素直で素朴な優しさを持った言葉を返し、又左衛門がそれに『恐れ入りましてございます』と平伏し、その場にいた屋敷の者達がそれに倣ったところで暗転し、場面が終わる。この最後の三つの言葉は素朴で何気ないものであったが、重い話の後の姫と家臣の素朴で何気ないやりとり、それだけに観客の心に残る。その何気ない言葉がその後の又左衛門の行動を哀しく引き立てる事になると分かっている義経は、そのやり取りを心に刻みつけた――
彼女の演技を見つつ星王がため息をつき呟く。
「…お姫さん、すげえよ。さっきの町娘姿も良かったけどさ、何だよあのお姫様のはまりっぷり」
「何か宮田さんが『お姫』って呼んでる理由が改めて理解できたぜ」
「でしょ?」
緒方の言葉に葉月はくすりと笑って小さな声で囁く。
「綺麗ですね~やっぱりあの人は大和撫子ですよ~」
小岩鬼もポーッとした表情で見とれながら呟く。
「ドブスのど下手な猿芝居やけど、おべべのせいでそれなりには見えるな」
「おめぇは黙ってろづら」
「まあ、岩鬼の評価がどうかはほっておくが、俺は彼女の芝居が好きだぞ。葉月や朝霞さん達の仕事や歌の姿勢にも言える事だが、彼女の芝居作りはまっすぐな努力をしている事がよく分かる」
「それがあたし達三人の共通点、演研の基本方針ですから」
土井垣の言葉に弥生は笑ってウィンクした。
そうして囁き合っているうちに場面が変わった。縁先に座り込んだ又左衛門が、今までとは少し変わった雰囲気で寂しそうに『歓楽きわまりて哀情多し、少壮幾時ぞ、この老いをいかんせん…まったくのう、この老いを如何にするかじゃ』と呟いている。その呟きを聞いた総師が呟く。
「…ほう、武帝じゃの。しかし何故今まで自らが暇なぼけ老人やら隠居やら散々言っておったのに、今更この詩なのかの」
総師の言葉に武蔵坊が続ける。
「何かがありそうですね、今までの事を考えると」
そうして見ていると女中と小太郎の賑やかなやり取りがありそれに対して又左衛門が孫の成長を感慨深く思う様な呟きを零したその直後、平八郎、藤七郎、帯刀が駆け込んできて物語に急展開が訪れる。江戸詰めになっていた源四郎が二幕の始めで語られた懇親会の席で、肥後藩の江戸家老を殺害して腹を切ったのだ。早馬でついた用人の書状という形を取り、又左衛門と駆け込んできた四人の会話によってその次第と顛末が語られていく。源四郎は藩主の近習、本来ならこんな懇親会には出るはずがない身だが、江戸家老が決まっておらず、本来参加する用人も所要ができてしまい代理として気軽に彼を行かせた事から悲劇が始まる。武骨な源四郎がこうした馬鹿げた酒の席を快く思うはずがなく、苦虫を噛み潰して酒も飲まずに座っていると、それが癇に障ったその日の采配役の殺害された肥後藩家老が何か芸を見せろと言い出した。芸人ではござらぬと撥ねつけた源四郎を更に揶揄する様に『あちこち転々とした大久保殿の家臣にしては芸がないの、尻軽なあるじに似て無粋な男じゃ』と嘲笑った肥後藩家老の言葉に自分を通して主君を辱められたと分かった源四郎は、その雑言許さぬと脇差を抜いて肥後藩家老を切りつけた。一刀流皆伝の剣の腕は家老の頭を割って即死させ、源四郎自身もその場で腹を切ったという事が語られ、そこで観客は一幕の源四郎と又左衛門のやりとりを思い出し、源四郎がただの血気盛んな若者から又左衛門の教えの通り成長し、『大儀の一分』の元に武士として散った事を理解する。又左衛門は『源四郎良くやった。君はずかしめられれば臣死す、これぞ真の武士ぞ、良くやった!』と称えるが、その話には更に続きがあり、その続きの話がこの場の、そしてこの芝居自体の本質なのだとその展開を観ていくうちに観客は理解していく。その続きとは、公儀はこの件に関し喧嘩両成敗、お咎めなしとしたが、相手方の肥後藩が文句をつけた事だった。肥後藩は公儀に『こちらは肥後五十万石、その江戸家老を殺されて十万石の一介の近習に腹を切ってもらっても割に合わぬ、そちらも江戸家老を切腹させよ』と申し立てたのだ。大久保家は石高こそ小さくても直参譜代大名藩であり、外様の肥後藩よりも権威は格段に上だから撥ねつけたいのだが、公儀には肥後五十万石を怒らせてはまずい事情があるらしく、藩主が老中松平公に呼ばれ、その松平公からどうか丸く収めてくれと頭を下げられた。それに対し藩主は即答を避けて『この件は国許で図れ』という沙汰を下したという書状。そして観客全員が決定的な『運命の一言』に刻一刻と近づいていくのを感じ取りながら話は進んでいく。もし向こうの言う通り家老に切腹をさせたとしたら、大久保家の家臣達は肥後藩と戦うと言い出し、肥後藩もそれに対抗し、譜代大名と外様大名の騒乱に発展しかねない。そうなれば公儀は困り、今の泰平の世が乱れる。そうは出来ない。ならどうすればいいか――穏便な道はただ一つ、『江戸家老本人が自ら腹を切ってくれる』事。しかしその江戸家老はまだ未定のままなのだ、どうしたらいいのか――スターズの面々を含めた観客はその『一言』を息を呑んで待つ。会話が途切れ、しばしの間の後、又左衛門はその『一言』を静かに、重く口にする。
「『…わしにその江戸家老になれ、そういう事じゃな』」
そして観客は、今までの芝居に散りばめられた様々なピースを組み合わせながらやり取りを見守る。帯刀が感情を抑えた口調でただ静かに、静かに『その方なれば長きにわたって城代家老を勤めた男じゃ、肥後江戸藩邸にもその方の名は知られておる。その方なら納得するであろう。…又左、死んでくれるか』と口にし、その帯刀に抗議する平八郎を制し、又左衛門は更なる決定的な言葉を紡いでいく。『無聊隠居の身にも飽きた頃じゃ、良い潮時を与えてくれたものよ。…帯刀、藤七郎…この儀、引き受けた』と。そして観客は理解した。未定のまま月日が過ぎていた江戸家老の座の件も、榛名姫の労わりの言葉も、又左衛門が呟いた詩も、小太郎に対する感慨も、全ては又左衛門の死への道標だったのだと。しかし一つだけ疑問が残る。ならば彼の悲願である小田原への望郷の思いはどこへ行くのだろうと――その疑問はその後の会話で解けていく。又左衛門はただ切腹を引き受けて死ぬだけのつもりはなかったのだ。又左衛門は自らの死に見返りと花を添える計略を語っていく。『老中が藩主に頭を下げたのなら、それは公儀の藩に対する借り。ならその借りを返してもらおう』と、城代家老である帯刀には一足先に頭を下げた江戸の老中松平公の所へ行き、家中反発の最中わが江戸家老に詰め腹を切らせるのだから、見返りとしてわが藩積年の嘆願である小田原藩帰参の件を検討する様言上しに行く様に、藤七郎には藩士百名を武装の騎馬武者に仕立てる様に頼む。そして自らは経帷子でその騎馬武者の先頭に立ち江戸へ行き、肥後上屋敷へそのまま乗りつけ玄関先で腹を切ると語る。そうすればその道中は目を引き、江戸へ入れば町奉行が仰天する騒動になり、文句をつけた肥後守はぐうの音も出ない。公儀はそれを咎める理由がないばかりか、周人の目にその派手な振る舞いが刻みつけられる事により、小田原藩帰参の件、検討を余儀なくされるだろう、という又左衛門の計略の緻密さと小気味よさに、帯刀も藤七郎も承知する。そして又左衛門は平八郎に笑いながら酒、つまり末期の酒の用意をさせる様に言って立ち去らせると、舞台は二幕の最初の様に老人三人になった。『お前一人だけでは死なせない、この件が落着したら後を追う』と言う帯刀と藤七郎に対し、又左衛門は明るく『何を申すか、せいぜい踏ん張ってご奉公せい!ご奉公あるは幸せぞ。隠居など一見気楽に見ゆるがの、いざとなってみよ、わしなぞ芸のなきものは蛇の生殺しじゃ。…いや、よき死場所を与えてくれた。礼を申す』と叱咤激励する。その言葉に観客は自分の代わりにお前達は生きて小田原藩帰参を見届けろという又左衛門の願いと、彼の『大義の一分』を見る。死するからには無駄死にはしない。君主を、藩を傷つけた上、石高をかさに着て人を死なせる傲慢な肥後藩と、それを黙認する公儀に一矢報い、その事で何よりの悲願を達成させる糧になろうという彼の誇り高き武士としての大義の一分を――そうして天を仰いで瞑目する三人が暗転に消えるとともに、観客席から感動による盛大な拍手が沸き起こった――
そうして音楽とともに暗転の中にスポットライトが当てられ、その中にいる又左衛門が静江と女中の一人の介助によって経帷子に着替えていく。その静かで緩やかな様子に、彼が経帷子に着替え終わっていく流れと、彼の死の一瞬へ向かう道が重なっていく。そして草履をはき、最後に静江から刀を渡されそれぞれが控えた所で、突然馬の嘶きが響き、舞台が明るくなる。塀の向こうに幟が見え、庭には屋敷の人間全員が控え、佐兵衛を皮切りに一同は口々に別れの言葉を口にする。そして藤七郎と平八郎がやって来た所で、最後にたった一つだけ残されていた伏線の顛末がやり取りされていく。又左衛門は藤七郎から一分銀をもらい、その一分を『すっかり忘れておったわ、いつぞやの一分、この通り返すぞ。…嘘ばっかりの爺ではあるまい、健やかにの』と言って小太郎の手に握らせたのだ。おかしいはずなのにそれ以上に哀しいやり取り。観客の一部から笑いが混じりながらのすすり泣きの様な声が聞こえてくる。そして鎧武者三人が現われ、その1人によって出立の用意が整った事を告げられる。又左衛門は屋敷の者達に振り返り『皆、さらばじゃ!』と明るく声を掛け塀の向こうへ去っていく。武者達や藤七郎や屋敷の者達がそれに続き、舞台には静江と小太郎が残る。少しの間の後、塀の向こうから又左衛門の『いざっ!』という号令とそれに応える男達の『おおっ!』という声が続き、馬蹄の音とともに、幟がゆっくりと動き出す。静江は泣き崩れ、小太郎はその場に座り、『爺様、おさらばでございます』と礼をしたところで馬蹄の音の中舞台が暗転し、また客席から拍手が沸き起こった――
舞台袖で宇佐美と出る支度をしながら、義経は舞台の様子を見守っていた。観客席からすすり泣きや拍手が聞こえる毎に、役に入りながらも彼は緊張が高まって来る。それぞれの素晴らしい演技、これだけの見事な芝居に見合う幕引きをする役目が自分にできるのだろうか――あと一息、緊張と怖れで最後まで役に入り込めずに固まっている義経の袖がふとまた静かに引かれる。見ると若菜が榛名姫の表情で彼を見つめていた。義経が見つめ返すと、彼女は真剣な眼差しで静かに『何もせずともよいのです。又左衛門様のお心を…ただ皆に伝えて下さいませ』と言葉をかけた。その言葉に込められた心が伝わった時、義経の固まっていた身体から力が抜けると同時に、彼は完全に『大久保忠朝』に重なった。そして舞台に出る様に呼ばれ、彼は一言『伝えて参る』と彼女に呟くと、自分の出る場所へ向かった――
彼女の演技を見つつ星王がため息をつき呟く。
「…お姫さん、すげえよ。さっきの町娘姿も良かったけどさ、何だよあのお姫様のはまりっぷり」
「何か宮田さんが『お姫』って呼んでる理由が改めて理解できたぜ」
「でしょ?」
緒方の言葉に葉月はくすりと笑って小さな声で囁く。
「綺麗ですね~やっぱりあの人は大和撫子ですよ~」
小岩鬼もポーッとした表情で見とれながら呟く。
「ドブスのど下手な猿芝居やけど、おべべのせいでそれなりには見えるな」
「おめぇは黙ってろづら」
「まあ、岩鬼の評価がどうかはほっておくが、俺は彼女の芝居が好きだぞ。葉月や朝霞さん達の仕事や歌の姿勢にも言える事だが、彼女の芝居作りはまっすぐな努力をしている事がよく分かる」
「それがあたし達三人の共通点、演研の基本方針ですから」
土井垣の言葉に弥生は笑ってウィンクした。
そうして囁き合っているうちに場面が変わった。縁先に座り込んだ又左衛門が、今までとは少し変わった雰囲気で寂しそうに『歓楽きわまりて哀情多し、少壮幾時ぞ、この老いをいかんせん…まったくのう、この老いを如何にするかじゃ』と呟いている。その呟きを聞いた総師が呟く。
「…ほう、武帝じゃの。しかし何故今まで自らが暇なぼけ老人やら隠居やら散々言っておったのに、今更この詩なのかの」
総師の言葉に武蔵坊が続ける。
「何かがありそうですね、今までの事を考えると」
そうして見ていると女中と小太郎の賑やかなやり取りがありそれに対して又左衛門が孫の成長を感慨深く思う様な呟きを零したその直後、平八郎、藤七郎、帯刀が駆け込んできて物語に急展開が訪れる。江戸詰めになっていた源四郎が二幕の始めで語られた懇親会の席で、肥後藩の江戸家老を殺害して腹を切ったのだ。早馬でついた用人の書状という形を取り、又左衛門と駆け込んできた四人の会話によってその次第と顛末が語られていく。源四郎は藩主の近習、本来ならこんな懇親会には出るはずがない身だが、江戸家老が決まっておらず、本来参加する用人も所要ができてしまい代理として気軽に彼を行かせた事から悲劇が始まる。武骨な源四郎がこうした馬鹿げた酒の席を快く思うはずがなく、苦虫を噛み潰して酒も飲まずに座っていると、それが癇に障ったその日の采配役の殺害された肥後藩家老が何か芸を見せろと言い出した。芸人ではござらぬと撥ねつけた源四郎を更に揶揄する様に『あちこち転々とした大久保殿の家臣にしては芸がないの、尻軽なあるじに似て無粋な男じゃ』と嘲笑った肥後藩家老の言葉に自分を通して主君を辱められたと分かった源四郎は、その雑言許さぬと脇差を抜いて肥後藩家老を切りつけた。一刀流皆伝の剣の腕は家老の頭を割って即死させ、源四郎自身もその場で腹を切ったという事が語られ、そこで観客は一幕の源四郎と又左衛門のやりとりを思い出し、源四郎がただの血気盛んな若者から又左衛門の教えの通り成長し、『大儀の一分』の元に武士として散った事を理解する。又左衛門は『源四郎良くやった。君はずかしめられれば臣死す、これぞ真の武士ぞ、良くやった!』と称えるが、その話には更に続きがあり、その続きの話がこの場の、そしてこの芝居自体の本質なのだとその展開を観ていくうちに観客は理解していく。その続きとは、公儀はこの件に関し喧嘩両成敗、お咎めなしとしたが、相手方の肥後藩が文句をつけた事だった。肥後藩は公儀に『こちらは肥後五十万石、その江戸家老を殺されて十万石の一介の近習に腹を切ってもらっても割に合わぬ、そちらも江戸家老を切腹させよ』と申し立てたのだ。大久保家は石高こそ小さくても直参譜代大名藩であり、外様の肥後藩よりも権威は格段に上だから撥ねつけたいのだが、公儀には肥後五十万石を怒らせてはまずい事情があるらしく、藩主が老中松平公に呼ばれ、その松平公からどうか丸く収めてくれと頭を下げられた。それに対し藩主は即答を避けて『この件は国許で図れ』という沙汰を下したという書状。そして観客全員が決定的な『運命の一言』に刻一刻と近づいていくのを感じ取りながら話は進んでいく。もし向こうの言う通り家老に切腹をさせたとしたら、大久保家の家臣達は肥後藩と戦うと言い出し、肥後藩もそれに対抗し、譜代大名と外様大名の騒乱に発展しかねない。そうなれば公儀は困り、今の泰平の世が乱れる。そうは出来ない。ならどうすればいいか――穏便な道はただ一つ、『江戸家老本人が自ら腹を切ってくれる』事。しかしその江戸家老はまだ未定のままなのだ、どうしたらいいのか――スターズの面々を含めた観客はその『一言』を息を呑んで待つ。会話が途切れ、しばしの間の後、又左衛門はその『一言』を静かに、重く口にする。
「『…わしにその江戸家老になれ、そういう事じゃな』」
そして観客は、今までの芝居に散りばめられた様々なピースを組み合わせながらやり取りを見守る。帯刀が感情を抑えた口調でただ静かに、静かに『その方なれば長きにわたって城代家老を勤めた男じゃ、肥後江戸藩邸にもその方の名は知られておる。その方なら納得するであろう。…又左、死んでくれるか』と口にし、その帯刀に抗議する平八郎を制し、又左衛門は更なる決定的な言葉を紡いでいく。『無聊隠居の身にも飽きた頃じゃ、良い潮時を与えてくれたものよ。…帯刀、藤七郎…この儀、引き受けた』と。そして観客は理解した。未定のまま月日が過ぎていた江戸家老の座の件も、榛名姫の労わりの言葉も、又左衛門が呟いた詩も、小太郎に対する感慨も、全ては又左衛門の死への道標だったのだと。しかし一つだけ疑問が残る。ならば彼の悲願である小田原への望郷の思いはどこへ行くのだろうと――その疑問はその後の会話で解けていく。又左衛門はただ切腹を引き受けて死ぬだけのつもりはなかったのだ。又左衛門は自らの死に見返りと花を添える計略を語っていく。『老中が藩主に頭を下げたのなら、それは公儀の藩に対する借り。ならその借りを返してもらおう』と、城代家老である帯刀には一足先に頭を下げた江戸の老中松平公の所へ行き、家中反発の最中わが江戸家老に詰め腹を切らせるのだから、見返りとしてわが藩積年の嘆願である小田原藩帰参の件を検討する様言上しに行く様に、藤七郎には藩士百名を武装の騎馬武者に仕立てる様に頼む。そして自らは経帷子でその騎馬武者の先頭に立ち江戸へ行き、肥後上屋敷へそのまま乗りつけ玄関先で腹を切ると語る。そうすればその道中は目を引き、江戸へ入れば町奉行が仰天する騒動になり、文句をつけた肥後守はぐうの音も出ない。公儀はそれを咎める理由がないばかりか、周人の目にその派手な振る舞いが刻みつけられる事により、小田原藩帰参の件、検討を余儀なくされるだろう、という又左衛門の計略の緻密さと小気味よさに、帯刀も藤七郎も承知する。そして又左衛門は平八郎に笑いながら酒、つまり末期の酒の用意をさせる様に言って立ち去らせると、舞台は二幕の最初の様に老人三人になった。『お前一人だけでは死なせない、この件が落着したら後を追う』と言う帯刀と藤七郎に対し、又左衛門は明るく『何を申すか、せいぜい踏ん張ってご奉公せい!ご奉公あるは幸せぞ。隠居など一見気楽に見ゆるがの、いざとなってみよ、わしなぞ芸のなきものは蛇の生殺しじゃ。…いや、よき死場所を与えてくれた。礼を申す』と叱咤激励する。その言葉に観客は自分の代わりにお前達は生きて小田原藩帰参を見届けろという又左衛門の願いと、彼の『大義の一分』を見る。死するからには無駄死にはしない。君主を、藩を傷つけた上、石高をかさに着て人を死なせる傲慢な肥後藩と、それを黙認する公儀に一矢報い、その事で何よりの悲願を達成させる糧になろうという彼の誇り高き武士としての大義の一分を――そうして天を仰いで瞑目する三人が暗転に消えるとともに、観客席から感動による盛大な拍手が沸き起こった――
そうして音楽とともに暗転の中にスポットライトが当てられ、その中にいる又左衛門が静江と女中の一人の介助によって経帷子に着替えていく。その静かで緩やかな様子に、彼が経帷子に着替え終わっていく流れと、彼の死の一瞬へ向かう道が重なっていく。そして草履をはき、最後に静江から刀を渡されそれぞれが控えた所で、突然馬の嘶きが響き、舞台が明るくなる。塀の向こうに幟が見え、庭には屋敷の人間全員が控え、佐兵衛を皮切りに一同は口々に別れの言葉を口にする。そして藤七郎と平八郎がやって来た所で、最後にたった一つだけ残されていた伏線の顛末がやり取りされていく。又左衛門は藤七郎から一分銀をもらい、その一分を『すっかり忘れておったわ、いつぞやの一分、この通り返すぞ。…嘘ばっかりの爺ではあるまい、健やかにの』と言って小太郎の手に握らせたのだ。おかしいはずなのにそれ以上に哀しいやり取り。観客の一部から笑いが混じりながらのすすり泣きの様な声が聞こえてくる。そして鎧武者三人が現われ、その1人によって出立の用意が整った事を告げられる。又左衛門は屋敷の者達に振り返り『皆、さらばじゃ!』と明るく声を掛け塀の向こうへ去っていく。武者達や藤七郎や屋敷の者達がそれに続き、舞台には静江と小太郎が残る。少しの間の後、塀の向こうから又左衛門の『いざっ!』という号令とそれに応える男達の『おおっ!』という声が続き、馬蹄の音とともに、幟がゆっくりと動き出す。静江は泣き崩れ、小太郎はその場に座り、『爺様、おさらばでございます』と礼をしたところで馬蹄の音の中舞台が暗転し、また客席から拍手が沸き起こった――
舞台袖で宇佐美と出る支度をしながら、義経は舞台の様子を見守っていた。観客席からすすり泣きや拍手が聞こえる毎に、役に入りながらも彼は緊張が高まって来る。それぞれの素晴らしい演技、これだけの見事な芝居に見合う幕引きをする役目が自分にできるのだろうか――あと一息、緊張と怖れで最後まで役に入り込めずに固まっている義経の袖がふとまた静かに引かれる。見ると若菜が榛名姫の表情で彼を見つめていた。義経が見つめ返すと、彼女は真剣な眼差しで静かに『何もせずともよいのです。又左衛門様のお心を…ただ皆に伝えて下さいませ』と言葉をかけた。その言葉に込められた心が伝わった時、義経の固まっていた身体から力が抜けると同時に、彼は完全に『大久保忠朝』に重なった。そして舞台に出る様に呼ばれ、彼は一言『伝えて参る』と彼女に呟くと、自分の出る場所へ向かった――