「…ごめん。俺、泣きそうだわ」
「何だよこれ、何でこんな事になるんだよ」
「…今年はいつも以上に内容重いけど、その分くるものもおっきいですよ」
「正直老体のこの身には更に詰まされる話じゃ。…でも義経がまだ出てきておらんのう」
「そういえばそうだな…」
そう言っていると音楽とともに暗転の中座敷の壁であった舞台中央が開き、スモークが焚かれ、ほの明るい照明の中、開いた舞台の中央からまず書状を乗せた三方を奉げ持った帯刀が登場し、中央に三方を置き控えた後、ゆっくりとした歩調で静かに明らかに帯刀より位が高いと分かる装束を身にまとった男が登場した。プログラムの役を消去していくとこの男が藩主、大久保忠朝なのだろう。
「…何だよ義経の奴、さんざ待たせてやっと出…」
その男が義経だと分かった三太郎は気分を奮い立たせるためにからかう言葉を口にしようとして、そのまま口をつぐむ。義経の醸し出す清冽さと威厳に言葉を失ったのだ。他の面々も彼の姿にそのまま見入る。義経は三方の少し後ろですっと立ち止まると、まるで自分達を見つめる様に静かな眼差しで正面を見据えた。一同はその眼差しに吸い込まれる様に彼に視線を返す。他の観客も義経の様子に何かを感じたかの様に彼に視線を集めているのが伝わって来る。そうして一息の間の後に、帯刀の言葉が自分達観客にかけられる様に響き渡ってきた。
「『皆々、よおっく聞けい…!わが藩は年明けにこの佐倉を払い、小田原へ返り咲くことと相成った!…更に一万三千石の加増、わが藩は十一万三千石の譜代大名藩となる!』」
その言葉を皮切りに面々を含めた観客達は自分達が芝居を『観る』立場から脱して『参加する』立場になった事が分かり、いつの間にかその雰囲気に観客としてではなく藩士として舞台の一員になる形で引き込まれていく。もちろん舞台裏から藩士が出している事になるのだろうどよめき等の声も聞こえてくるが、いつの間にか観客達からも同じ様にどよめきや歓喜の声が出てきていた。そしてその中で静かに自分達を見つめ立っていた忠朝役の義経が、青年君主らしい凛とした声で言葉を紡いでいく。
「『こたびのご公儀よりの吉報は、皆も承知の通り、森脇又左衛門切腹の段が功を奏したと言ってよい。皆も又左衛門が忠節、あだおろそかに想うまいぞ』」
その言葉に池田や小岩鬼、観客の何人かが『はい』と返している。しかしそれを笑う者は誰一人いなかった。それだけ彼ら自身が芝居の世界に入り込んでいたのであり、また言葉を発した忠朝自身が、彼らに本気で言葉を掛けているのが心から伝わってきたからだ。一息の間の後、忠朝の凛とした言葉は更に続く。
「『…その又左衛門がの、城代へ遺言状を残した。城代へと申すより、わが藩へ呼びかけた檄文と言ってよい。余も感に打たれた。皆にも聞かせる故…又左衛門が胸中、汲んでやるがよい』」
その言葉に込められた忠朝の心を受け取ったのか、先刻より多くの観客がまた『はい』と返す。スターズの一同はほぼ全員返事をしていた。その返事を受け取ったかの様に忠朝は頷き、控えていた帯刀の方に向き直り、『帯刀っ』と号令をかける。帯刀は『はっ!』と返し、二人は頷き合うと、帯刀は三方の前に行き正面を向いて書状を手にし、書状の巻紙を広げ『ご城代殿へ参らせ候…』で始まる又左衛門の遺言状を読み上げていく。観客はその遺言状の一言一句を漏らすまいと集中して聞き入る。遺言状は小田原という地の地理とその古くからの歴史から始まり、この小田原という地が幕府にとって、そして大久保家や自分達藩士にとってどういう意味をもった土地なのかという内容の文面が続く。曰く『江戸幕府開闢の折、小田原を持って最後の砦となす。将来徳川家に仇なすもの、必ずや西より興る。その節、熊本城敗れ、姫路城敗れ、大阪(おおざか)、名古屋城落ちた時、江戸城を守るは小田原城なるぞ、心して統治せよと命ず。命ぜられし家臣こそ誰あろう、わが藩祖大久保忠世公なり』そして更に、今までの話の中で少しづつ語られていた事の詳しい事情、二代目忠隣の時に本多正信の讒言により改易となり、美濃、須磨、唐津、佐倉を何年も転々とさせられ、帰参の歎願を出しても公儀から返答がなかったという内容の文が続き、そして今回の佐々木源四郎の切腹の件においての肥後藩の傲慢は小田原へ帰参する好機であり、これで公儀に一矢報いる事ができるのだから自分の死は本望なのだという意味の文の後、こう締めくくられる。
義経は目の前に広がる観客席を評定の間に、観客を藩士と重ね合わせている自分を感じ、自分は今確かに若菜が言っていた『夢』を見ているのだとほんの少し残っていたらしい義経光としての感覚で感じ取っていた。そして凛として立ちながら、大久保忠朝として、帯刀が読み上げていく又左衛門の遺言状の文面を、心の中で噛み締めながら聞く。老中から肥後藩の一件丸く収めてくれと頭を下げられ、即答せず国許で図れと命じたのは、暗に又左衛門に対する自分からの死刑宣告だったのだ。何故なら自分は全て分かっていたのだから。戦を起こさず丸く収めるにはどうしたらいいのか、そしてその場合、江戸家老として自ら腹を切る事になるのは誰なのか――そして若菜とこの部分の芝居を作るためにどうするか取り留めなく話していたある時、彼女は自分が考えている榛名姫としてはこの件に関して知ったとしたらどう思うかと口にした内容も思い出す。『国を戦の地にしてはいけない事は分かっている。佐々木源四郎がどんな理由があろうと家老を殺したのも確かに悪かった。でも何故それ以上の相手方の勝手な言い分や公儀の思惑で、何の罪もない又左衛門が、ただ長年城代家老を勤めていて肥後藩に顔が利くという理由だけで自ら死ぬ形で殺されなければならないのか。私は自分が彼の屋敷にいる間きっと自分に親切だった、そして小田原に帰りたいと心から願っている事もおそらく聞いて知っているだろう又左衛門がその願いも叶わず、何の罪咎もないのに死ななければならない事に泣いて、それを暗に命じた兄であるあなたを責めるだろう』と――その言葉に、妹の武士の誇りや体面や駆け引きなどない、そして本来武士である自分達もそうあるべき、ただの人間としてのあるべき姿に対する同意の心と、藩主として家臣や民衆を守らなければならない立場の挟間で、本当ならどうしても死なせなければならないなら、せめて直に又左衛門に死んでくれと頭を下げなければならなかったのにそうしなかった、いや――できなかった自分に罪悪感を覚える。それでも自分の心を受け取り死んでくれただけはなく、肥後藩にも公儀にも彼の無念を一緒に晴らすかの様に一矢報いた又左衛門。そして彼は自身の手で悲願の小田原藩帰参を勝ち取ったのだ。しかし自らの死と引き換えに帰参を勝ち取った事により、誰より自らが帰りたかった小田原へ、彼は帰れなくなってしまったのだ。その又左衛門が死に至って残した遺言状という形を借りた檄文。彼はそこに残された又左衛門の言葉と心を刻み込む。そして遺言状が読み終わり、開いたまま捧げられる様に三方の上に置かれ、帯刀が控え直したのを確認し、又左衛門への感謝、謝罪、自らの後悔など様々な思いを胸に、天にいるだろう又左衛門へ届く事を願いながら、その又左衛門へ向かってのセリフを静かに、しかし力強く紡ぐ。
「『又左衛門、帰れるぞ。…安らかに逝けい…』」
又左衛門の遺言状に続いたその言葉で、感極まった観客からまたすすり泣きが漏れてくる。彼は観客に分からない様に深呼吸をすると、その観客達であり、藩士達である皆を帰参に向けて律する様に、そして自らも奮い立たせる様に正面をはっきりと見据え、万感を込め今までで一番凛とした声で、最後の一言を発する。
「『実に、七十五年振りの小田原への帰参じゃ。皆々城の明け渡し、受け取りは遺漏なきよう計らえ!……帰りなん、帰りなんいざ小田原へ!』」
そうして観客席からの『はい!』という声と舞台裏からの『ははっ!』という声を聞きながら、義経はふっと虚空を見つめた。誰よりも、もしかすると自分よりも強い望郷の念を持っていたのに、生きて小田原へ帰る事が出来なかった又左衛門。それでも主が、仲間が、そして家族が父祖の地へ帰れる事をきっと喜びながら、今この虚空のどこかで自分達を見詰めているだろう、そうあって欲しいとその魂を探し求め、その魂だけでもせめて共に小田原へ帰れる様に願って――彼の行動は自然な思いから出たものであったが、それが結果的に見得を切った形になり、それをきっかけにそのまま手紙のみスポットで照明が残された形で舞台は溶暗する。忠朝の見得と闇の中ぽつりと残された又左衛門の遺言状。その二つで終幕は形としても綺麗に、何より心からの感動のままに幕が降り、一瞬の間の後、今までで一番大きな拍手が上がったのが緞帳越しに分かった。義経は緞帳が下りた後、しばらく放心した様に立ち尽くしていたが、その拍手と中の役者やスタッフの『お疲れ様!カーテンコール行くよ!』という声で我に返り、その様子を見て静かに微笑んでいた若菜と並んでカーテンコールの準備をする。そして全員が並び終わった所で舞台監督から『じゃあ幕開けるから、礼して!』と声がかかり、礼をして止まった所で緞帳がもう一度上がり、カーテンコールが行われる。座長の挨拶の後、客席の馴染みの客やファンから役者にそれぞれ花束が贈られる。義経も若菜も来ると分かったメンバー全員に『花は要らない』と申し伝えておいたので何もないだろうと思っていたら、不意に呼ばれる。見ると葉月と弥生がそれぞれアレンジメントらしい花を持って笑っていた。二人が驚いていると、葉月は若菜に、弥生は義経にそれぞれ持っていた花を渡す。
「はい、お姫。あたしとヒナから今年は特別努力賞だよ」
「義経君にはスターズ一同からよ。誰がここに来ても騒動になるだろうからあたしが代理」
「…ありがとう、およう」
「…ありがとう、朝霞さん」
「じゃあ後でね」
そういうと二人は笑顔で手を振って戻って行った。そうしてひと段落ついた所で改めて『ありがとうございました!』という言葉とともに礼をして、緞帳が下がった。緞帳が降り切った所で役者やスタッフから拍手が上がり、『初日終了、お疲れ様でした!』と口々に大きな声を上げる。義経は彼らの様に声を上げられなかったが、それでも同様に『お疲れ様でした』と一同には届く声で挨拶を口にし、一礼した。義経が役者としては素人である事に加え、たとえ小さな声でも充分に心のこもった挨拶と礼だという事はどんなに鈍い人間でも分かったので、役者達は彼の様子もそれ程抵抗なく受け入れる。そうして舞台監督から『じゃあ着替えて早く撤収だよ!』と声がかけられ、役者達はそれぞれ着替えに楽屋へ戻る、義経も楽屋へ戻ろうとした時、不意に舞台袖で若菜が『あの…光さん』と呼び止めた。彼は何も考えずに微笑みかけて労りの言葉を返す。
「ああ、若菜さん。お疲れ様」
「はい…光さんこそ、お疲れ様でした。…で…その…」
「どうしたんだ?」
若菜が何かを言い出そうとしてためらっているのを見て義経は不思議に思い、問い返すと、彼女はうん、という様に頷いて、一生懸命言葉を紡いでいく。
「あの…さっきも写真撮ってもらいましたけど…さっきは町娘の姿でしたし…この格好でのゲネ写真は…あの、頭がこれじゃなかったですし…ちゃんとした写真が撮りたくって…おように頼んだんです…だから…一緒に…でも、ごめんなさい、勝手に話をつけて…あの、駄目なら…もちろん…」
若菜の一生懸命な頼みが嬉しいと思ったのはもちろん、この姿でのちゃんとした二人での写真を残したいという気持ちは自分も同じだったので、義経は優しく微笑んで頷く。
「ああ、二人の写真は俺も欲しいから…撮ってもらおう」
「…ありがとうございます」
若菜は幸せそうににっこり微笑んだ。と、男子楽屋から関谷が二人に声をかけてきた。
「若菜ちゃん、義経君、お客が来たからおいで」
「はい」
「分かりました」
二人は微笑み合いながら男子楽屋へ足を運んだ。
「何だよこれ、何でこんな事になるんだよ」
「…今年はいつも以上に内容重いけど、その分くるものもおっきいですよ」
「正直老体のこの身には更に詰まされる話じゃ。…でも義経がまだ出てきておらんのう」
「そういえばそうだな…」
そう言っていると音楽とともに暗転の中座敷の壁であった舞台中央が開き、スモークが焚かれ、ほの明るい照明の中、開いた舞台の中央からまず書状を乗せた三方を奉げ持った帯刀が登場し、中央に三方を置き控えた後、ゆっくりとした歩調で静かに明らかに帯刀より位が高いと分かる装束を身にまとった男が登場した。プログラムの役を消去していくとこの男が藩主、大久保忠朝なのだろう。
「…何だよ義経の奴、さんざ待たせてやっと出…」
その男が義経だと分かった三太郎は気分を奮い立たせるためにからかう言葉を口にしようとして、そのまま口をつぐむ。義経の醸し出す清冽さと威厳に言葉を失ったのだ。他の面々も彼の姿にそのまま見入る。義経は三方の少し後ろですっと立ち止まると、まるで自分達を見つめる様に静かな眼差しで正面を見据えた。一同はその眼差しに吸い込まれる様に彼に視線を返す。他の観客も義経の様子に何かを感じたかの様に彼に視線を集めているのが伝わって来る。そうして一息の間の後に、帯刀の言葉が自分達観客にかけられる様に響き渡ってきた。
「『皆々、よおっく聞けい…!わが藩は年明けにこの佐倉を払い、小田原へ返り咲くことと相成った!…更に一万三千石の加増、わが藩は十一万三千石の譜代大名藩となる!』」
その言葉を皮切りに面々を含めた観客達は自分達が芝居を『観る』立場から脱して『参加する』立場になった事が分かり、いつの間にかその雰囲気に観客としてではなく藩士として舞台の一員になる形で引き込まれていく。もちろん舞台裏から藩士が出している事になるのだろうどよめき等の声も聞こえてくるが、いつの間にか観客達からも同じ様にどよめきや歓喜の声が出てきていた。そしてその中で静かに自分達を見つめ立っていた忠朝役の義経が、青年君主らしい凛とした声で言葉を紡いでいく。
「『こたびのご公儀よりの吉報は、皆も承知の通り、森脇又左衛門切腹の段が功を奏したと言ってよい。皆も又左衛門が忠節、あだおろそかに想うまいぞ』」
その言葉に池田や小岩鬼、観客の何人かが『はい』と返している。しかしそれを笑う者は誰一人いなかった。それだけ彼ら自身が芝居の世界に入り込んでいたのであり、また言葉を発した忠朝自身が、彼らに本気で言葉を掛けているのが心から伝わってきたからだ。一息の間の後、忠朝の凛とした言葉は更に続く。
「『…その又左衛門がの、城代へ遺言状を残した。城代へと申すより、わが藩へ呼びかけた檄文と言ってよい。余も感に打たれた。皆にも聞かせる故…又左衛門が胸中、汲んでやるがよい』」
その言葉に込められた忠朝の心を受け取ったのか、先刻より多くの観客がまた『はい』と返す。スターズの一同はほぼ全員返事をしていた。その返事を受け取ったかの様に忠朝は頷き、控えていた帯刀の方に向き直り、『帯刀っ』と号令をかける。帯刀は『はっ!』と返し、二人は頷き合うと、帯刀は三方の前に行き正面を向いて書状を手にし、書状の巻紙を広げ『ご城代殿へ参らせ候…』で始まる又左衛門の遺言状を読み上げていく。観客はその遺言状の一言一句を漏らすまいと集中して聞き入る。遺言状は小田原という地の地理とその古くからの歴史から始まり、この小田原という地が幕府にとって、そして大久保家や自分達藩士にとってどういう意味をもった土地なのかという内容の文面が続く。曰く『江戸幕府開闢の折、小田原を持って最後の砦となす。将来徳川家に仇なすもの、必ずや西より興る。その節、熊本城敗れ、姫路城敗れ、大阪(おおざか)、名古屋城落ちた時、江戸城を守るは小田原城なるぞ、心して統治せよと命ず。命ぜられし家臣こそ誰あろう、わが藩祖大久保忠世公なり』そして更に、今までの話の中で少しづつ語られていた事の詳しい事情、二代目忠隣の時に本多正信の讒言により改易となり、美濃、須磨、唐津、佐倉を何年も転々とさせられ、帰参の歎願を出しても公儀から返答がなかったという内容の文が続き、そして今回の佐々木源四郎の切腹の件においての肥後藩の傲慢は小田原へ帰参する好機であり、これで公儀に一矢報いる事ができるのだから自分の死は本望なのだという意味の文の後、こう締めくくられる。
――もし意に反して さにあらずとも
忘るるなかれ 諦めるなかれ
小田原は わが藩父祖の地なり
必ずや帰るべし 必ずや帰るべし――
忘るるなかれ 諦めるなかれ
小田原は わが藩父祖の地なり
必ずや帰るべし 必ずや帰るべし――
義経は目の前に広がる観客席を評定の間に、観客を藩士と重ね合わせている自分を感じ、自分は今確かに若菜が言っていた『夢』を見ているのだとほんの少し残っていたらしい義経光としての感覚で感じ取っていた。そして凛として立ちながら、大久保忠朝として、帯刀が読み上げていく又左衛門の遺言状の文面を、心の中で噛み締めながら聞く。老中から肥後藩の一件丸く収めてくれと頭を下げられ、即答せず国許で図れと命じたのは、暗に又左衛門に対する自分からの死刑宣告だったのだ。何故なら自分は全て分かっていたのだから。戦を起こさず丸く収めるにはどうしたらいいのか、そしてその場合、江戸家老として自ら腹を切る事になるのは誰なのか――そして若菜とこの部分の芝居を作るためにどうするか取り留めなく話していたある時、彼女は自分が考えている榛名姫としてはこの件に関して知ったとしたらどう思うかと口にした内容も思い出す。『国を戦の地にしてはいけない事は分かっている。佐々木源四郎がどんな理由があろうと家老を殺したのも確かに悪かった。でも何故それ以上の相手方の勝手な言い分や公儀の思惑で、何の罪もない又左衛門が、ただ長年城代家老を勤めていて肥後藩に顔が利くという理由だけで自ら死ぬ形で殺されなければならないのか。私は自分が彼の屋敷にいる間きっと自分に親切だった、そして小田原に帰りたいと心から願っている事もおそらく聞いて知っているだろう又左衛門がその願いも叶わず、何の罪咎もないのに死ななければならない事に泣いて、それを暗に命じた兄であるあなたを責めるだろう』と――その言葉に、妹の武士の誇りや体面や駆け引きなどない、そして本来武士である自分達もそうあるべき、ただの人間としてのあるべき姿に対する同意の心と、藩主として家臣や民衆を守らなければならない立場の挟間で、本当ならどうしても死なせなければならないなら、せめて直に又左衛門に死んでくれと頭を下げなければならなかったのにそうしなかった、いや――できなかった自分に罪悪感を覚える。それでも自分の心を受け取り死んでくれただけはなく、肥後藩にも公儀にも彼の無念を一緒に晴らすかの様に一矢報いた又左衛門。そして彼は自身の手で悲願の小田原藩帰参を勝ち取ったのだ。しかし自らの死と引き換えに帰参を勝ち取った事により、誰より自らが帰りたかった小田原へ、彼は帰れなくなってしまったのだ。その又左衛門が死に至って残した遺言状という形を借りた檄文。彼はそこに残された又左衛門の言葉と心を刻み込む。そして遺言状が読み終わり、開いたまま捧げられる様に三方の上に置かれ、帯刀が控え直したのを確認し、又左衛門への感謝、謝罪、自らの後悔など様々な思いを胸に、天にいるだろう又左衛門へ届く事を願いながら、その又左衛門へ向かってのセリフを静かに、しかし力強く紡ぐ。
「『又左衛門、帰れるぞ。…安らかに逝けい…』」
又左衛門の遺言状に続いたその言葉で、感極まった観客からまたすすり泣きが漏れてくる。彼は観客に分からない様に深呼吸をすると、その観客達であり、藩士達である皆を帰参に向けて律する様に、そして自らも奮い立たせる様に正面をはっきりと見据え、万感を込め今までで一番凛とした声で、最後の一言を発する。
「『実に、七十五年振りの小田原への帰参じゃ。皆々城の明け渡し、受け取りは遺漏なきよう計らえ!……帰りなん、帰りなんいざ小田原へ!』」
そうして観客席からの『はい!』という声と舞台裏からの『ははっ!』という声を聞きながら、義経はふっと虚空を見つめた。誰よりも、もしかすると自分よりも強い望郷の念を持っていたのに、生きて小田原へ帰る事が出来なかった又左衛門。それでも主が、仲間が、そして家族が父祖の地へ帰れる事をきっと喜びながら、今この虚空のどこかで自分達を見詰めているだろう、そうあって欲しいとその魂を探し求め、その魂だけでもせめて共に小田原へ帰れる様に願って――彼の行動は自然な思いから出たものであったが、それが結果的に見得を切った形になり、それをきっかけにそのまま手紙のみスポットで照明が残された形で舞台は溶暗する。忠朝の見得と闇の中ぽつりと残された又左衛門の遺言状。その二つで終幕は形としても綺麗に、何より心からの感動のままに幕が降り、一瞬の間の後、今までで一番大きな拍手が上がったのが緞帳越しに分かった。義経は緞帳が下りた後、しばらく放心した様に立ち尽くしていたが、その拍手と中の役者やスタッフの『お疲れ様!カーテンコール行くよ!』という声で我に返り、その様子を見て静かに微笑んでいた若菜と並んでカーテンコールの準備をする。そして全員が並び終わった所で舞台監督から『じゃあ幕開けるから、礼して!』と声がかかり、礼をして止まった所で緞帳がもう一度上がり、カーテンコールが行われる。座長の挨拶の後、客席の馴染みの客やファンから役者にそれぞれ花束が贈られる。義経も若菜も来ると分かったメンバー全員に『花は要らない』と申し伝えておいたので何もないだろうと思っていたら、不意に呼ばれる。見ると葉月と弥生がそれぞれアレンジメントらしい花を持って笑っていた。二人が驚いていると、葉月は若菜に、弥生は義経にそれぞれ持っていた花を渡す。
「はい、お姫。あたしとヒナから今年は特別努力賞だよ」
「義経君にはスターズ一同からよ。誰がここに来ても騒動になるだろうからあたしが代理」
「…ありがとう、およう」
「…ありがとう、朝霞さん」
「じゃあ後でね」
そういうと二人は笑顔で手を振って戻って行った。そうしてひと段落ついた所で改めて『ありがとうございました!』という言葉とともに礼をして、緞帳が下がった。緞帳が降り切った所で役者やスタッフから拍手が上がり、『初日終了、お疲れ様でした!』と口々に大きな声を上げる。義経は彼らの様に声を上げられなかったが、それでも同様に『お疲れ様でした』と一同には届く声で挨拶を口にし、一礼した。義経が役者としては素人である事に加え、たとえ小さな声でも充分に心のこもった挨拶と礼だという事はどんなに鈍い人間でも分かったので、役者達は彼の様子もそれ程抵抗なく受け入れる。そうして舞台監督から『じゃあ着替えて早く撤収だよ!』と声がかけられ、役者達はそれぞれ着替えに楽屋へ戻る、義経も楽屋へ戻ろうとした時、不意に舞台袖で若菜が『あの…光さん』と呼び止めた。彼は何も考えずに微笑みかけて労りの言葉を返す。
「ああ、若菜さん。お疲れ様」
「はい…光さんこそ、お疲れ様でした。…で…その…」
「どうしたんだ?」
若菜が何かを言い出そうとしてためらっているのを見て義経は不思議に思い、問い返すと、彼女はうん、という様に頷いて、一生懸命言葉を紡いでいく。
「あの…さっきも写真撮ってもらいましたけど…さっきは町娘の姿でしたし…この格好でのゲネ写真は…あの、頭がこれじゃなかったですし…ちゃんとした写真が撮りたくって…おように頼んだんです…だから…一緒に…でも、ごめんなさい、勝手に話をつけて…あの、駄目なら…もちろん…」
若菜の一生懸命な頼みが嬉しいと思ったのはもちろん、この姿でのちゃんとした二人での写真を残したいという気持ちは自分も同じだったので、義経は優しく微笑んで頷く。
「ああ、二人の写真は俺も欲しいから…撮ってもらおう」
「…ありがとうございます」
若菜は幸せそうににっこり微笑んだ。と、男子楽屋から関谷が二人に声をかけてきた。
「若菜ちゃん、義経君、お客が来たからおいで」
「はい」
「分かりました」
二人は微笑み合いながら男子楽屋へ足を運んだ。